アーリーが書けなくて満足

情報技能のページを大幅に変えてみた。そして、ローマ字変換の定義も。分かり易くなって、一番助かっているのは私自身だと思うけど、これで英語キーボードの普及や、カタカナ語の改善に繋がるとすれば嬉しい。

「ん」は nn の入力で納得

以前、こぶり羅馬字変換の説明で「ん」の為の専用キーに l を割り当てる、としていたが、l は英語発音の[l]をカタカナとして入力する為のキーに変更した。

それは、入力時に かなモードにし忘れて、アルファベットで入力してしまった時に、「ん」の入力に l を使っていると もしかして変換 の御利益を受け損なうからだった。それに、「ん」の入力に n と nn を使い分けるのが思考の妨げになると思っていたけど、慣れれば大丈夫というネット上の情報が在った。

確かに、nn としなければならない場合は母音か拗音の前なのだが、「ん」の発音自体も n で入力出来る場合とは異なっている。だから、発音に忠実な n と nn を使い分ける入力で納得なのだ。

rr の動作

そして、rr と入力した時の動作も、促音「っ」+r となるように変更した。

以前は、arrir と入力して「あーりー」に変換したけど、今のローマ字変換の定義だと「あっりー」になる。英語発音には[r]の連続は在り得ないので、どっちの定義でもいいのだが、ローマ人に「スッラ」という人物がいたから、それは入力出来るようにしたいと思った。

じゃあ、「あーりー」はどうするか、というと長音符の入力は本来の - キーを使えば良いのだった。長音符の入力に r を使う事が当たり前になってすっかり忘れていた。

ローマ字変換でも R と L の違いを意識出来る

処で、「アーリー」って英語の early をカタカナにしたもので、発音は[ˈəːli]だから、「リー」の部分は l なのだった。だから、arlir と入力してみる。すると、「あーるりー」と変換された。

これは、私が[l]の発音の表現方法に拘っているからで、もし li の変換を単に「り」にしておけば、入力時に R と L の違いを感じつつ、かつ長音符の入力に r を使って違和感なく入力出来た。だから、「アーリー」が書けなくて満足なのである。

しかし、正しく[ˈəːli]を私の定義でカタカナにするには、qely と入力する。これは、「あぇるりぃ」と変換される。

おから・ブラン効果

「おから・ブラン効果はあった?」 夫婦で何気なく交わした会話で、おっ、何か物理の法則みたいでカッコイイと思った。

「おから」も「ブラン」も食物繊維を多く含む食品で、排泄に関して重要な役目を果たす。その両者が揃えば鬼に金棒である。

近所の八百屋さんで豆腐を扱っていて、「おから」は無料で持ち帰る事が出来る。それを知ってからちょくちょく利用させて貰うが、10時開店で午前中には無くなっているから、「おから」が欲しい時には朝からソワソワして八百屋さんに向かう。

「おから」の料理は妻に頼っている。妻に言わせれば、「おから」はパサパサしているので、美味しく食べるには油と合わせるのが重要らしい。だから、おからハンバーグ等の挽き肉料理と相性がいい。この前は、おからポテトサラダが娘に好評だった。これもマヨネーズの油が入るから相性がいい。
余談: 今日の おからポテトサラダのレシピは、おから・じゃがいも・玉ねぎ・豆乳・マヨネーズ・酢・辛子、とのこと。
「ブラン」は何時もヨーグルトのトッピングとして食している。ケロッグの「オールブラン 香ばしナッツ」という製品を買っているが、パッケージに期間限定と書いてあるのが気になる。


私の食べているヨーグルトは、手作りの豆乳+アカディヨーグルトで、最近は豆乳:アカディが3:1位の割合にしている。種は市販のブルガリアヨーグルトを元祖として代々受け継いでいる。

一方、妻のヨーグルトは市販品である。手作りのヨーグルトが切れている時には私も貰って食べる事があるけど、慣れてきたせいか私には手作りヨーグルトの方が美味しく感じる。

セネカの文よりも解説

今日が返却期限の本の中にセネカの「人生の短さについて」他2篇 (中澤務 訳、光文社)というものがある。先日、新刊書の棚にあったものを借り、今は予約が2つも入っているから借り直す事が出来ない。それをちゃんと読んで返そうとしていた。

セネカの哲学が私の規範

セネカは約2千年前の古代ローマの哲学者で、訳本も今迄幾つも出ていたが、古典新訳文庫なるものが出来て新刊書として図書館の棚に並んでいたのだった。

他は「母ヘルウィアへのなぐさめ」と「心の安定について」の2篇でこの組み合わせは今迄の文庫とは異なるというのが新訳の訳者の弁である。(「セネカ哲学全集」という本が岩波書店から出ていてこれには網羅されているが)

今迄、折に触れてセネカの思想を解説した本を読んできたが、文をそのまま(日本語訳)読んではいなかったと思う。今回、直に(日本語訳だが)読んでみて、改めて、何時もこぶり主義のブログで書いている事がセネカの主張と同じだったと感じる。

解説の文の方が読みやすい

しかし、そのセネカの書いた文章は読みにくい。その文のどれもが個人に対する書簡だから練に練った文章では無いのだろうとは思うが、兎に角ダラダラと書き連ねているのだ。

「母ヘルウィアへのなぐさめ」は自分の母親に向けての感情への働きかけだろうから仕方がないかもしれないが、「人生の短さについて」はローマ帝国の食料管理官という重職を勤めている親戚のパウリヌスという人物に対して、「心の安定について」は年下のセレヌスという友人に対して書いた書簡である。もっと筋立てて書けないものか。

例えば、「人生の短さについて」の中にこんな文章がある。
なんの役にも立たない雑学の研究に熱中する人たちは、いかに一生懸命であっても、なにもしていないのと同じだ。
と書いてから、雑学の例について沢山の話をその先延々と書いているのである。(話の一つを抜書きしようと思ったがそれでも長過ぎるので残念ながら割愛する)

本文を読むと、このように セネカ氏も実は雑学好きらしい と分かったりする面白さはあるが、こんな調子で書かれては読むのも疲れる。しかし、この本の解説を読むとセネカの言いたいことが実にスッキリ分かるのだ。新訳の価値は解説に有り。

例えば、セレヌス君はシンプルに生きようとしていても豪華な贅沢を目にすると心がぐらつき、仕事や人間関係に躓くとすぐに心が折れてくじけて逃げ出してしまい、どうでもいいきっかけでまた元の状態に戻ってしまうような、だれもが持っている心の弱さのある人物だそうだが、セネカが彼に与えた具体的なアドバイスを訳者は解説で以下のように纏めてくれた。
  1. 自分の仕事に打ち込み、自分に許された場所で、自分の義務を果たすこと。そして、状況が悪化したら、自分から仕事を離れ、閑暇のなかで生きること。
  2. 仕事を選ぶときには、自分の適性をよく考えるとともに、自分の力量で対処できない仕事や際限のない仕事は避けること。また、一緒に仕事をする、よい友人を選ぶこと。
  3. 少ない財産で質素な生活を送り、運命に翻弄されないように気をつけること。
  4. 自分の置かれた境遇に不平を言わず、それに慣れること。どんな運命に襲われるかわからないから、つねに警戒を怠らず、備えをしておくこと。
  5. けっして、無意味で無益な仕事はしないこと。運命に翻弄されることなく、自分を保ち、逆境でも動じないこと。
  6. 人々の欠点に絶望して嘆くようなことをせず、それを笑って受け止めるか、冷静に受け入れるかすること。
  7. 正しい人間が不運に見舞われる姿を見ても、けっして絶望しないこと。
  8. 自分を取り繕うようなことをせず、率直な生き方を心がけること。
  9. ひととの交わりに疲れたら、孤独に逃げ込むこと。
  10. 心が疲労したら、さまざまな方法で気晴らしを与え、活力を回復させること。
引用がちょっと長くなったが、多くの人にとって、これらはとても大事な事だと思ったので全部書いた。

つまり、セネカの主張は2千年の時を隔てても ちっとも古臭くなく、価値のあるものだが、その表現形式はこの間に発達し、現代の表現方法の方が優れているのである。

パラグラフ・ライティング

一般的に、文章とは書き手の主張を読み手に理解して貰うのを目的とする文の集まりである。そうすると、なるべく読んで貰い易く、理解し易いように書くべきである。その技術の集大成がパラグラフ・ライティングと呼ばれる表現形式であって、論文は全てこの形式に則って書かれているし、エッセイや説明文など多くの文章も大概この形式で書かれている。

そういう形式の文章ばかりを読んでいるせいか、私にはダラダラと書かれた文章を読み通すことは苦痛で、残念ながらセネカ氏の名文もアチコチ読み飛ばしてしまった。

こんな事を言いだしたのは、同じく今日が返却期限の
知的な大人の勉強法 英語を制する「ライティング」 キム・ジョンキュー著 講談社
という本も読んだからに違いない。英語力を伸ばすには、ライティングと添削を繰り返すしかない、というのが著者の主張だが、その添削をする人は正しくライティングの教育を受けた人(ネイティブでも高等教育を受けて無ければ無理)で無ければ務まらない。そのライティングの添削とは、
  1. 文法の間違いを訂正し、とくに悪い癖を直す。
  2. 通じにくい単語の使い方を指摘し、もっと適切な代替案を示す。
  3. 論理的なつながりの弱いところや矛盾を指摘し、再構成を促す。
  4. 必要以上の修飾を削る。すなわち言葉の浪費を避け、効率よいコミュニケーションを図る。
  5. 文章全体の構成を検証し、論理の流れを見直す。
というものである。英語そのものだけでなく、その文の構成(パラグラフ・ライティング)が如何に重要かについても詳しく述べていた。筆者は韓国から米国の高校に留学し、そこでの国語(勿論、英語である)授業でライティングの指導を受けたという。

残念ながら、日本の(高校以下の)英語教師にこれを求めるのは無理だろう。しかし、流暢に英語を喋れるようになるよりは正しい英文の書ける方が余程大切だと思う。小学生から英語を教えるよりも、ライティングの添削が出来るレベルの先生を増やすように日本の英語教育の方向を変えて貰いたいものだ。

そして、日本の国語授業もまた作文(ライティング)を中心としてなされるべきものと思う。国際標準のパラグラフ・ライティングをそこで学ぶことこそグローバル教育なのだ。

街頭で寄附はしない

今日、郵便局に行って出身高校の同窓会と娘の大学の基金に寄附金を振り込んだ。今迄、寄附には消極的だったが、これからは気が向けば寄附をしよう。お金の使い道としてかなり優れていると思うから。

以前、「あえて節税せず」という投稿をしたことがあった。節税には一手間かかるし、税務署の仕事も増える。そうして余分に作ったお金を国や自治体に寄附する位だったら、最初から節税しないで、合法的に節税出来る金額は自動的に寄附したと思えば同じ事だ。

私は特定口座で株を運用していて配当金の税金は源泉徴収されている。所得控除は一切無しに20%ちょっと引かれるから結構な額になる。これ以外に所得はないから、申告すればその一部を還付してもらう事も可能(但し、その為にはあらかじめ複数の特定口座に保有株式を分散しておく必要がある)だが あえてやらない。だから、仕事をしていないようでも人並み以上の税金は払っている。

それでも、これからは教育費も掛からなくなるはずだから、お金にゆとりが出てくるはず。そのゆとりは、まず自分の生活を充実させる為に使う積りだが、その上で残ったお金は社会に役立てたい。税金を納める事で公共の用については責任を果たしていると思うから、教育や文化にお金を使ったり寄附するのが良いと思った。

街頭で寄附はしない

今回の寄附はいずれも高校の同窓会誌や大学の父兄向け広報誌に入っていた寄附の振込用紙を使った。これで間違いなく寄附しようとした所に寄附金は届く。

そう言えば、街頭で募金活動しているのによく出くわすが、私は一度もそれに寄附した事は無い。通行の邪魔をしないで欲しいと思う位だ。その募金活動に費やす時間を働いて稼ぎを自分で寄附したらどうだ(実際は雇われたアルバイトが募金活動をやっている場合が多いらしいが)、とも思う。

私が街頭で寄附しない理由は、そのお金が何処へ行くのか確かめられない事にある。もし、そのお金が反社会的勢力に渡れば寄附をした事が社会の迷惑になるし、そうで無くとも事務費の名目で理事長の贅沢な生活に使われたら癪に障るのだ。