今日が返却期限の本の中にセネカの「人生の短さについて」他2篇 (中澤務 訳、光文社)というものがある。先日、新刊書の棚にあったものを借り、今は予約が2つも入っているから借り直す事が出来ない。それをちゃんと読んで返そうとしていた。
セネカの哲学が私の規範
セネカは約2千年前の古代ローマの哲学者で、訳本も今迄幾つも出ていたが、古典新訳文庫なるものが出来て新刊書として図書館の棚に並んでいたのだった。
他は「母ヘルウィアへのなぐさめ」と「心の安定について」の2篇でこの組み合わせは今迄の文庫とは異なるというのが新訳の訳者の弁である。(「セネカ哲学全集」という本が岩波書店から出ていてこれには網羅されているが)
今迄、折に触れてセネカの思想を解説した本を読んできたが、文をそのまま(日本語訳)読んではいなかったと思う。今回、直に(日本語訳だが)読んでみて、改めて、何時もこぶり主義のブログで書いている事がセネカの主張と同じだったと感じる。
解説の文の方が読みやすい
しかし、そのセネカの書いた文章は読みにくい。その文のどれもが個人に対する書簡だから練に練った文章では無いのだろうとは思うが、兎に角ダラダラと書き連ねているのだ。
「母ヘルウィアへのなぐさめ」は自分の母親に向けての感情への働きかけだろうから仕方がないかもしれないが、「人生の短さについて」はローマ帝国の食料管理官という重職を勤めている親戚のパウリヌスという人物に対して、「心の安定について」は年下のセレヌスという友人に対して書いた書簡である。もっと筋立てて書けないものか。
例えば、「人生の短さについて」の中にこんな文章がある。
なんの役にも立たない雑学の研究に熱中する人たちは、いかに一生懸命であっても、なにもしていないのと同じだ。
と書いてから、雑学の例について沢山の話をその先延々と書いているのである。(話の一つを抜書きしようと思ったがそれでも長過ぎるので残念ながら割愛する)
本文を読むと、このように セネカ氏も実は雑学好きらしい と分かったりする面白さはあるが、こんな調子で書かれては読むのも疲れる。しかし、この本の解説を読むとセネカの言いたいことが実にスッキリ分かるのだ。新訳の価値は解説に有り。
例えば、セレヌス君はシンプルに生きようとしていても豪華な贅沢を目にすると心がぐらつき、仕事や人間関係に躓くとすぐに心が折れてくじけて逃げ出してしまい、どうでもいいきっかけでまた元の状態に戻ってしまうような、だれもが持っている心の弱さのある人物だそうだが、セネカが彼に与えた具体的なアドバイスを訳者は解説で以下のように纏めてくれた。
- 自分の仕事に打ち込み、自分に許された場所で、自分の義務を果たすこと。そして、状況が悪化したら、自分から仕事を離れ、閑暇のなかで生きること。
- 仕事を選ぶときには、自分の適性をよく考えるとともに、自分の力量で対処できない仕事や際限のない仕事は避けること。また、一緒に仕事をする、よい友人を選ぶこと。
- 少ない財産で質素な生活を送り、運命に翻弄されないように気をつけること。
- 自分の置かれた境遇に不平を言わず、それに慣れること。どんな運命に襲われるかわからないから、つねに警戒を怠らず、備えをしておくこと。
- けっして、無意味で無益な仕事はしないこと。運命に翻弄されることなく、自分を保ち、逆境でも動じないこと。
- 人々の欠点に絶望して嘆くようなことをせず、それを笑って受け止めるか、冷静に受け入れるかすること。
- 正しい人間が不運に見舞われる姿を見ても、けっして絶望しないこと。
- 自分を取り繕うようなことをせず、率直な生き方を心がけること。
- ひととの交わりに疲れたら、孤独に逃げ込むこと。
- 心が疲労したら、さまざまな方法で気晴らしを与え、活力を回復させること。
引用がちょっと長くなったが、多くの人にとって、これらはとても大事な事だと思ったので全部書いた。
つまり、セネカの主張は2千年の時を隔てても ちっとも古臭くなく、価値のあるものだが、その表現形式はこの間に発達し、現代の表現方法の方が優れているのである。
パラグラフ・ライティング
一般的に、文章とは書き手の主張を読み手に理解して貰うのを目的とする文の集まりである。そうすると、なるべく読んで貰い易く、理解し易いように書くべきである。その技術の集大成がパラグラフ・ライティングと呼ばれる表現形式であって、論文は全てこの形式に則って書かれているし、エッセイや説明文など多くの文章も大概この形式で書かれている。
そういう形式の文章ばかりを読んでいるせいか、私にはダラダラと書かれた文章を読み通すことは苦痛で、残念ながらセネカ氏の名文もアチコチ読み飛ばしてしまった。
こんな事を言いだしたのは、同じく今日が返却期限の
知的な大人の勉強法 英語を制する「ライティング」 キム・ジョンキュー著 講談社
という本も読んだからに違いない。英語力を伸ばすには、ライティングと添削を繰り返すしかない、というのが著者の主張だが、その添削をする人は正しくライティングの教育を受けた人(ネイティブでも高等教育を受けて無ければ無理)で無ければ務まらない。そのライティングの添削とは、
- 文法の間違いを訂正し、とくに悪い癖を直す。
- 通じにくい単語の使い方を指摘し、もっと適切な代替案を示す。
- 論理的なつながりの弱いところや矛盾を指摘し、再構成を促す。
- 必要以上の修飾を削る。すなわち言葉の浪費を避け、効率よいコミュニケーションを図る。
- 文章全体の構成を検証し、論理の流れを見直す。
というものである。英語そのものだけでなく、その文の構成(パラグラフ・ライティング)が如何に重要かについても詳しく述べていた。筆者は韓国から米国の高校に留学し、そこでの国語(勿論、英語である)授業でライティングの指導を受けたという。
残念ながら、日本の(高校以下の)英語教師にこれを求めるのは無理だろう。しかし、流暢に英語を喋れるようになるよりは正しい英文の書ける方が余程大切だと思う。小学生から英語を教えるよりも、ライティングの添削が出来るレベルの先生を増やすように日本の英語教育の方向を変えて貰いたいものだ。
そして、日本の国語授業もまた作文(ライティング)を中心としてなされるべきものと思う。国際標準のパラグラフ・ライティングをそこで学ぶことこそグローバル教育なのだ。