スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2017の投稿を表示しています

アーリーが書けなくて満足

情報技能のページを大幅に変えてみた。そして、ローマ字変換の定義も。分かり易くなって、一番助かっているのは私自身だと思うけど、これで英語キーボードの普及や、カタカナ語の改善に繋がるとすれば嬉しい。

「ん」は nn の入力で納得 以前、こぶり羅馬字変換の説明で「ん」の為の専用キーに l を割り当てる、としていたが、l は英語発音の[l]をカタカナとして入力する為のキーに変更した。

それは、入力時に かなモードにし忘れて、アルファベットで入力してしまった時に、「ん」の入力に l を使っていると もしかして変換 の御利益を受け損なうからだった。それに、「ん」の入力に n と nn を使い分けるのが思考の妨げになると思っていたけど、慣れれば大丈夫というネット上の情報が在った。

確かに、nn としなければならない場合は母音か拗音の前なのだが、「ん」の発音自体も n で入力出来る場合とは異なっている。だから、発音に忠実な n と nn を使い分ける入力で納得なのだ。

rr の動作 そして、rr と入力した時の動作も、促音「っ」+r となるように変更した。

以前は、arrir と入力して「あーりー」に変換したけど、今のローマ字変換の定義だと「あっりー」になる。英語発音には[r]の連続は在り得ないので、どっちの定義でもいいのだが、ローマ人に「スッラ」という人物がいたから、それは入力出来るようにしたいと思った。

じゃあ、「あーりー」はどうするか、というと長音符の入力は本来の - キーを使えば良いのだった。長音符の入力に r を使う事が当たり前になってすっかり忘れていた。

ローマ字変換でも R と L の違いを意識出来る 処で、「アーリー」って英語の early をカタカナにしたもので、発音は[ˈəːli]だから、「リー」の部分は l なのだった。だから、arlir と入力してみる。すると、「あーるりー」と変換された。
これは、私が[l]の発音の表現方法に拘っているからで、もし li の変換を単に「り」にしておけば、入力時に R と L の違いを感じつつ、かつ長音符の入力に r を使って違和感なく入力出来た。だから、「アーリー」が書けなくて満足なのである。
しかし、正しく[ˈəːli]を私の定義でカタカナにするには、qely と入力する。これは、「あぇるりぃ」と変換される。

おから・ブラン効果

「おから・ブラン効果はあった?」 夫婦で何気なく交わした会話で、おっ、何か物理の法則みたいでカッコイイと思った。

「おから」も「ブラン」も食物繊維を多く含む食品で、排泄に関して重要な役目を果たす。その両者が揃えば鬼に金棒である。

近所の八百屋さんで豆腐を扱っていて、「おから」は無料で持ち帰る事が出来る。それを知ってからちょくちょく利用させて貰うが、10時開店で午前中には無くなっているから、「おから」が欲しい時には朝からソワソワして八百屋さんに向かう。

「おから」の料理は妻に頼っている。妻に言わせれば、「おから」はパサパサしているので、美味しく食べるには油と合わせるのが重要らしい。だから、おからハンバーグ等の挽き肉料理と相性がいい。この前は、おからポテトサラダが娘に好評だった。これもマヨネーズの油が入るから相性がいい。
余談: 今日の おからポテトサラダのレシピは、おから・じゃがいも・玉ねぎ・豆乳・マヨネーズ・酢・辛子、とのこと。 「ブラン」は何時もヨーグルトのトッピングとして食している。ケロッグの「オールブラン 香ばしナッツ」という製品を買っているが、パッケージに期間限定と書いてあるのが気になる。


私の食べているヨーグルトは、手作りの豆乳+アカディヨーグルトで、最近は豆乳:アカディが3:1位の割合にしている。種は市販のブルガリアヨーグルトを元祖として代々受け継いでいる。

一方、妻のヨーグルトは市販品である。手作りのヨーグルトが切れている時には私も貰って食べる事があるけど、慣れてきたせいか私には手作りヨーグルトの方が美味しく感じる。

セネカの文よりも解説

今日が返却期限の本の中にセネカの「人生の短さについて」他2篇 (中澤務 訳、光文社)というものがある。先日、新刊書の棚にあったものを借り、今は予約が2つも入っているから借り直す事が出来ない。それをちゃんと読んで返そうとしていた。

セネカの哲学が私の規範 セネカは約2千年前の古代ローマの哲学者で、訳本も今迄幾つも出ていたが、古典新訳文庫なるものが出来て新刊書として図書館の棚に並んでいたのだった。

他は「母ヘルウィアへのなぐさめ」と「心の安定について」の2篇でこの組み合わせは今迄の文庫とは異なるというのが新訳の訳者の弁である。(「セネカ哲学全集」という本が岩波書店から出ていてこれには網羅されているが)

今迄、折に触れてセネカの思想を解説した本を読んできたが、文をそのまま(日本語訳)読んではいなかったと思う。今回、直に(日本語訳だが)読んでみて、改めて、何時もこぶり主義のブログで書いている事がセネカの主張と同じだったと感じる。
解説の文の方が読みやすい しかし、そのセネカの書いた文章は読みにくい。その文のどれもが個人に対する書簡だから練に練った文章では無いのだろうとは思うが、兎に角ダラダラと書き連ねているのだ。
「母ヘルウィアへのなぐさめ」は自分の母親に向けての感情への働きかけだろうから仕方がないかもしれないが、「人生の短さについて」はローマ帝国の食料管理官という重職を勤めている親戚のパウリヌスという人物に対して、「心の安定について」は年下のセレヌスという友人に対して書いた書簡である。もっと筋立てて書けないものか。
例えば、「人生の短さについて」の中にこんな文章がある。 なんの役にも立たない雑学の研究に熱中する人たちは、いかに一生懸命であっても、なにもしていないのと同じだ。 と書いてから、雑学の例について沢山の話をその先延々と書いているのである。(話の一つを抜書きしようと思ったがそれでも長過ぎるので残念ながら割愛する)

本文を読むと、このように セネカ氏も実は雑学好きらしい と分かったりする面白さはあるが、こんな調子で書かれては読むのも疲れる。しかし、この本の解説を読むとセネカの言いたいことが実にスッキリ分かるのだ。新訳の価値は解説に有り。

例えば、セレヌス君はシンプルに生きようとしていても豪華な贅沢を目にすると心がぐらつき、仕事や人間関係に躓くとすぐに心が折れてくじけ…

街頭で寄附はしない

今日、郵便局に行って出身高校の同窓会と娘の大学の基金に寄附金を振り込んだ。今迄、寄附には消極的だったが、これからは気が向けば寄附をしよう。お金の使い道としてかなり優れていると思うから。

以前、「あえて節税せず」という投稿をしたことがあった。節税には一手間かかるし、税務署の仕事も増える。そうして余分に作ったお金を国や自治体に寄附する位だったら、最初から節税しないで、合法的に節税出来る金額は自動的に寄附したと思えば同じ事だ。

私は特定口座で株を運用していて配当金の税金は源泉徴収されている。所得控除は一切無しに20%ちょっと引かれるから結構な額になる。これ以外に所得はないから、申告すればその一部を還付してもらう事も可能(但し、その為にはあらかじめ複数の特定口座に保有株式を分散しておく必要がある)だが あえてやらない。だから、仕事をしていないようでも人並み以上の税金は払っている。

それでも、これからは教育費も掛からなくなるはずだから、お金にゆとりが出てくるはず。そのゆとりは、まず自分の生活を充実させる為に使う積りだが、その上で残ったお金は社会に役立てたい。税金を納める事で公共の用については責任を果たしていると思うから、教育や文化にお金を使ったり寄附するのが良いと思った。

街頭で寄附はしない 今回の寄附はいずれも高校の同窓会誌や大学の父兄向け広報誌に入っていた寄附の振込用紙を使った。これで間違いなく寄附しようとした所に寄附金は届く。

そう言えば、街頭で募金活動しているのによく出くわすが、私は一度もそれに寄附した事は無い。通行の邪魔をしないで欲しいと思う位だ。その募金活動に費やす時間を働いて稼ぎを自分で寄附したらどうだ(実際は雇われたアルバイトが募金活動をやっている場合が多いらしいが)、とも思う。

私が街頭で寄附しない理由は、そのお金が何処へ行くのか確かめられない事にある。もし、そのお金が反社会的勢力に渡れば寄附をした事が社会の迷惑になるし、そうで無くとも事務費の名目で理事長の贅沢な生活に使われたら癪に障るのだ。