留学にクレジットカード

タイに留学する娘に持たせるため、JCBの家族カードを作る事にした。ネットで手続した書類が今日届いたので早速記入して投函した。

学費も住居費も渡航費も大学持ちという好条件の留学だが、自炊は出来ないから外食費とその他の費用(お小遣い)は必要らしい。幸い物価の安い国とはいえ、全額を現金で持っていくのも危険であるし、海外に送金するのは手間も手数料も掛かるから、クレジットカードのキャッシングが便利である。それで、本人が契約者のクレジットカードを作ることも考えた。

しかし、キャッシングの金利は高い。本人が契約者のクレジットカードではタイにタイ在中は繰り上げ返済して金利を節約するのが困難だ。でも家族カードなら、娘がタイにいる間でもメールで連絡して貰えば私のカードを使って繰り上げ返済出来るはずだ。そう考えて家族カードにした。(後に調べたところではATMを使ってカードで繰り上げ返済出来るのは国内キャッシングだけで、海外キャッシングの繰り上げ返済は振り込みになると分かった。)

では何故JCBか。海外ならVISAかMasterでしょ、と普通は考える。私も家族カードが追加出来るVISAのカードは持っているからそれでも良かった。

しかし、調べてみるとタイではJCBもかなり使える事が分かった。おまけにバンコクには世界に9ヶ所しかないJCBプラザ ラウンジというサービスがあって、JCBカードさえ持っていれば無料で使えるらしい。娘の留学先はバンコクの中心部にあるという幸運。

しかも、バンコク銀行のATMを使えばキャッシング手数料や国内手数料も無料らしいという情報をネットから得た。

トラブル対応についてもJCBが有利である。私のカードはJCB本体の発行だし、加盟店はJCBと直接契約している。VISAやMasterはカードの発行も加盟店の契約も別々のカード会社を介して繋がっているから、トラブル発生時には余分な階層が介在するだけ手間が掛かる。中には怪しい店とも契約するカード会社もあるから用心しなくてはならない。

だから、ショッピングではVISAやMasterの方が使える店が多いかも知れないが、JCBが使える店の方が安心出来る店が多いのは確かだ。

草履の修理

娘が夏から年末までタイに留学する予定なので、振り袖姿の前撮りはこの春にしようと妻が話を進めている。振り袖は妻が成人式の時に使ったものを妻の実家から送ってもらった。

しかし、草履に問題が。足に合わないのは前坪を少し伸ばせば大丈夫。と思ったら、前坪と鼻緒の裏側の金色の合皮がポロポロ剥がれて落ちてきた。おーい、草履職人よ、ちゃんと材質まで吟味して仕事しろよ。

全部剥がしたら目立たなくなるんでは。履いたら足で隠れるし。と言っても妻は納得しない。新しい草履を買うと主張。

妻はネットで調べたり、近くのお店に行ってみたけど、殆どはバッグとセットで売られていて6万円、珍しく草履だけ買えるものも2万円もするから、結局は断念して修理することにして、350円で金色の布地を買ってきた。その布で前坪を包む。修理は裁縫など妻がしたけど、一部は私も手伝った。


修理中の写真の手前に写っている金色のカスが剥がれた合皮の一部。


そして、完成写真。娘も足だけ登場。金色の合皮よりもいい感じ。

お金も節約出来たけれど、まだ立派に使えるものを捨てずに済んだのが嬉しかった。

初めてのクリーンセンター

昨日、A市クリーンセンターへ粗大ゴミを持ち込んだ。初めての経験だ。

A市では、粗大ゴミの回収に来てはくれるが、電話で回収日を予約し、当日に事前に購入した1枚300円の粗大ゴミ券(ゴミの種類によっては2枚以上)を粗大ゴミに貼り付けて指示された所に出しておく必要がある。

今回出そうとしているゴミはアルト君に積んだ荷物と当日追加でキックスケーター1台だ。回収に来てもらうとすると合計2,400円の粗大ゴミ券が必要らしい。

粗大ゴミの持ち込みも電話の予約が必要で、30分毎の時間帯が指定出来るから朝10時半に予約してあった。予約した時間の5分前位に到着したら、先客の車が5,6台列を作って待っていた。車に乗ったまま待っている間に係の人が受付して車の窓越しに書類を渡してくれる。

自分の番になった。まず車を大きな秤の上に停車させる。書類を持って受付窓口へ。それから車を作業ヤードへ移動する。そこにも係の人がいて粗大ゴミを車から降ろしてくれる。そして、車を最初と同じ秤の上迄移動して停車。この時、車の列はもう解消していた。又、書類を持って受付窓口に行くと、料金を計算してくれる。今回は30kgだったので180円だった。

やってみれば意外と簡単だった。何か廃品回収業者になった気分。車を持っているなら、断捨離で大量の粗大ゴミが出た時は持ち込みの方が良いと思う。その方が料金を気にせず好きなだけ捨てられる。

それから、前の投稿でダンシャラーって書いてみたけど、断捨離のムック本には断捨離する人の事をダンシャリアンって書いてあったぞ。犬の名前っぽい(それはダルメシアンやろ)けど。

断捨離と一期一会

断捨離。だんしゃらない、だんしゃり、だんしゃる、だんしゃれば、だんしゃろう。語尾がラ行で終わる言葉は勝手に動詞扱いにして遊べて面白い。ダンシャラーなんて名乗って見るのも面白いかも。

限られたモノを大事に使うようにしているのは、こぶり主義の私も心掛けていること。ただ、使ってないモノを捨てられなかった。その弊害は分かるんだけど。

しかし、娘の成人式に向けて妻の実家から振り袖が我が家に届き、いよいよ場所が無くなった。それで、遅まきながら断捨離を始めてみた。

現在、ゴミ袋が目の前に2つ、ベランダに2つ、家の外の廊下に2つ、息子の部屋に1つ(以上、妻と娘の働き)、アルト君には、スキー3組、ガスファンヒーター、一輪車、ビーチパラソル、が明日クリーンセンターへ持ち込む為に積まれている(以上、私の働き)。これだけ整理しても見た目は殆ど変わらない。でも、荷物が発する圧迫感が少し和らいだ気がする。これからも続けよう。

モノが何で溜まるのか。それは、将来使うかも知れないからとっておく、という思想。断捨離は、今を大切にする。将来の為に奪われている今を取り戻す。

そう言えば、人付き合いの話になるが、一期一会という思想がある。人の運命の頼りなさを知り、今を大切にせよ、という教えとばかり思っていたが、これは人付き合いの断捨離でもあると思う。人の繋がりが増えすぎたら身動きが取れなくなる。付き合いを敢えてそれきりと思う事でそんな事態を避ける知恵ではあるまいか。

断捨離って要らないモノを捨てる事だけど、その考え方はモノだけでなく、ヒト(付き合い)、カネ、ジカン(予定)でも同じだ。お金を溜め過ぎたら、自分で使えないお金の管理に人生を奪われる。時間を有効に使おうと予定を目一杯入れれば自由のない人生が待っている。

必要最低限だけ残して全部捨ててこそ「ゆとり」を得ることが出来る。

そう書いては見るものの、お金は余分に持ってこそ「ゆとり」じゃないのか? という疑問も湧いてくる。必要最低限より溜め込んでしまったらしい現状をどうするのか、模索は続きそうだ。

息をのむほどシンプル

投稿タイトルは、本日の日経新聞の読書欄にある「ジョナサン・アイブ」という作品を紹介する冒頭の言葉だ。

日経新聞は日曜日が一番いい。無駄な株価欄が無いから。今時の投資家でネットで情報も取れない者がいるとは思えない。時間遅れの個別株価や投信の個別基準価格を貴重な紙面何枚も割いて載せる意味がどれだけあるのか、日経には真剣に検討して貰いたい。

日曜日には株価欄がないから文化欄が充実する。読書欄に美術欄。平日だって、紙面の最後は文化欄だし、夕刊は多彩なコラムが面白い。投資やるなら日経でしょ、と思って取り始めたけど、意外と文化欄が充実していて、それが今でも取り続けている大きな理由だ。

それで本の話に戻るが、ジョナサン・アイブはアップルのトップデザイナーである。その書評の中に、
…ジョナサンが製品の形だけでなく、実用性や使い勝手はもちろん、中に収められた部品を全て計算し、その上に、製造過程までを想定してデサインしていた…
という説明がある。そうなのだ。本当にシンプルである為には、何が必須で何が不要なのかを熟知した上でデザインしなければならない。 形だけのシンプルさでは、必要な要素が抜けていて使えなかったり、或いは単純なだけで無駄な部分が削られてなかったりする。

それは自家用法人でも当てはまる。目指すは息をのむほどシンプルな会計帳簿と申告書類。完全に趣味の領域なんだから、仕訳を一つでも少なくしたい。書類も一枚でも少なく。

税理士の指導は真逆である。経費は一円でも多く計上すべし。使える引当金は最大限利用すべし。会計は複雑怪奇に。その方が自分の報酬も増えるし。その指導は企業会計基準に沿っていて、利益を最大化するためのもので、一般的に言えば間違いではない。

しかし、自家用法人は違うのだ。会計と申告は法を守るために最低限必要なことだけ。税務署が認める限り最大限に簡素化する美学を追求してみよう。

そうすると、経費を計上する必要は全くない。明らかに必要な経費でも社長がポケットマネーで支払って大丈夫。なぜなら、それで法人の所得が増えるから。税務署は所得が増える方には寛大で、減る方には厳しい。引当金もそう。それは合法的に所得を一時的に減らす(計上した時か増加させた時だけ)訳だから、計上しなくても大丈夫。

しかし、法人税等も社長のポケットマネーで払いましょう(記帳せず)、と言うのは脱税になる(と思う)。

まず、法人税等は税法上は経費じゃないから、社長のポケットマネーで支払っても会社の所得は増えない。そして、法人税等は課税された後に残った利益(もしくは会社の借入金)から支払うのが正しい。

そうしてから法人税等の額を後で会社に贈与しても、最初から社長のポケットマネーで支払う場合と残る資産の額は同じにならない。贈与分に課税された後の金額が法人税額等になるには余分に贈与が必要になる。この差額が脱税に当たるはずである。(税務署には確認してないが)

形だけのシンプルさの怖さだ。

事業で儲けることへの未練

会社への貸付金が増大していくのを食い止める別のやり方もある。債務免除という方法だ。

そうすると、会社の借入金が減った金額だけ債務免除益が発生するけど、過去の欠損金の繰越額と相殺すれば課税されない。しかし欠損金の繰越額を減らすとなると、将来、もし儲かった時の利益と相殺できずに課税されてしまう。

それで決定が先延ばしされてきた。しかし、繰越期間を過ぎてしまうと、その赤字額はもう補填には使えない。事業開始年の赤字はそろそろ繰越期間が過ぎようとしている。

自家用法人の経営を趣味と標榜するならば、その法人を使って事業で儲けようとする必要は無いはず。よし、もう未練は断ち切ろう。来期の決算では欠損金の繰越を一掃しよう。そして、来期から所得額も丁度ゼロになるように毎年債務免除していこう。

所得を丁度ゼロにすれば、税引後利益は払った税金の分だけ赤字だけど、年間82,000円だから、私が引退する頃まで債務超過にならない。

我が社の問題点

今日は給料日かつ子供達への仕送り日だった。申告を済ませて肩の荷が下りたので、今後暫くは会社の事について書こうと思う。

まずは現時点での反省点。極力小さく、手間の掛からない会社という目的は達成していると思うものの、赤字続き(創業以来、売上ゼロだし)で累積債務が毎年増加しているのが問題。まるで今の日本の財政と同じ。赤字法人の申告はお気楽という投稿を先日してしまったけど。

それがなぜ問題なのか。欠損金の繰越の書類を出すのが面倒(提出は任意だが、出さないと後日黒字になったときに欠損金と相殺してもらえない)なのと、会社への貸付金が増え過ぎてはいけない(相続の時に資産としてカウントされるから相続人に迷惑)からである。税引後利益が僅かに黒字で中間申告が不要な決算だと理想的だ。

中間申告が不要になるのは法人税額が20万円以下という条件。その為には所得金額が約133万円以下であること。一方、税引後利益が黒字となるには、均等割額8万2千円と所得に比例する税(地方税、事業税など全部あわせて税率24%とする)を考えると約11万円以上の所得が必要である。

現在は経費を年間約80万円使っている。経費の増加はないとして、年間90万円以上の収益が必要らしい。しかし、何か事業を始めなくても会社名義で投資すれば実現は出来そうである。しかも、国内株の配当金の5割は益金不算入(会社への貸付金が無利子の場合)になるから、所得は赤字でも税引後利益は黒字という夢の状態も不可能ではない。

実は、会社を作る目的の一つとして会社名義の投資を考えてはいた。だけど、会計と申告の手間が増えるから二の足を踏んでいたのだった。さて、どうするべきか?

還付金で味わう法人の超能力

さて、今日で法人税申告作業も終わり。赤字法人の申告はお気楽なだけでなく、利子に対する税金への超能力が味わえる。

まず、利子に対しては個人、法人問わず15.315%の国税(所得税と復興特別所得税)と5%の地方税(利子割)が源泉徴収される。個人ではどんなに所得が少なくてもこの税金が還付されるということは無い。

しかし法人なら、利子を含めた所得全体に掛かる税金からこの源泉徴収分を引いてくれる。そして赤字で税金が掛からない場合は還付されるのだ。これこそ法人だけが持つ超能力と言えよう。

さて、前年度の利子は22円が普通預金口座に振り込まれた。これは源泉徴収された後の金額だ。ここから元の利子の額が27円、源泉所得税が4円、利子割が1円と計算(1円未満の端数は切り捨て)される。
計算の方法 会社の口座がある銀行は利息の振込額(X)しか表示しない。そこで、まず X/0.79685 の値を計算し、一円未満を切り捨てる(Y:税引前の利息の予想値)。Y*0.15315 の値を計算し、一円未満を切り捨てる(A:国税の予想値)。Y*0.05 の値を計算し、一円未満を切り捨てる(B:地方税の予想値)。Y-A-BがXと一致すれば、Yが利子額、Aが所得税額等、Bが利子割となる。一致しなければ、ずれた額だけYを増減して再度計算し直す。2回以内の繰り返しで一致するはずである。
 法人所得税はゼロだから、源泉所得税は4円全額が還付される。法人県民税は均等割額22,000円から利子割1円が引かれて21,999円となる。法人市民税は均等割額60,000円そのままである。

しかし、還付を味わうのもこれが最後。実は、普通預金口座を一昨年の10月頃に利子の付かない決済用普通預金口座に切り替えた。昨今の低金利で僅かな額しか利子が付かないのに、還付金があると申告がとてもややこしくなるからだ。提出書類も増えるし。

しかし、これで利子が付かなくなったと思ったら、切り替え迄に付いた僅かな利子が昨年2月に振り込まれた。今回の申告で、その還付金4円が今年振り込まれるから、その影響は来年の申告にまで及ぶ。

会社創業以来、法人税申告の度に頭を悩ませた還付金。その元となった課税前利子がいったい幾らだったのか調べたら、たったの4,547円(その間の法人税等は710,600円)だった。最初からこれを諦めていれば申告も随分楽になっていたろうに。

この超能力を積極的に投資に活かす道もある。円では金利が低すぎるが、もっと高金利の通貨の債権などを国内証券会社の口座を通じて(利子に対する税金が源泉徴収される)買って、その利子額を上回る経費を計上(例えば社宅を作るとかすれば合法的に現状よりも経費を増やすことが可能)すればよいのだ。

しかし、もはや私が自家用法人を維持する目的は節税にはあらず。家族を守る砦として、最も簡潔に手間なく一個人が運営出来ればそれで良い。そして、どこまで簡潔に出来るか挑戦するのが楽しいのだ。

赤字法人の申告はお気楽

まず、今日の日経新聞の夕刊で青酸殺人事件の記事が朝刊と殆ど同じだった事を報告したい。朝刊の記事の最後に僅かな追加情報を加えただけの夕刊記事。それなら大半の部分は再掲する必要は無かった。

閑話休題、本日、法人税申告書をe-Taxで、法人県民税申告書をeLTAXで送信した。そして、法人市民税申告書、法人県民税と法人市民税の納付書を作成。明日、市役所に行って申告書を提出し、銀行で納税すれば平成26年度事業分の法人税申告作業は全て終了する。

この作業は毎年の事なので前の年の申告書を見ながら作れば楽なのだが、重い腰が中々上がらない。それでもブログを書き始めたお陰で、今年は期限まで約2週間を残して我が社としては今迄で最も早く申告出来た。

自分の性格として、やれば出来る予想が立つ事にはやる気が出ない。それは、他人でも出来る事を自分がやる必要は無いと心の底で思っているのが原因と思う。実際は自分しかやる人がいないけど。そして、一番やる気が起きるのは、やり方は分からないが出来る可能性がある事。困難を乗り越えて実現出来た時の達成感は格別である。でもそっちの仕事?を家族は全く評価してくれない。

自家用法人を立ち上げた時、初の法人税申告は自分にとってチャレンジだった。しかし、今回で申告は九回目。その間、税務署からのお尋ねは一切無し。別に申告書が完璧だった訳では無い。例えば、今回の申告で発見したけど、去年の法人事業概況説明書の中で所得額を千円単位で書く欄で一円単位で書いていた。つまり、赤字額が約8億円!だった訳だ。

おそらく、税務署は我が社の申告を殆どチェックしてない。売上がない赤字法人などどんなに厳しくチェックしても税務署には一円も入らない。後日の調査で赤字額が修正されようとも、税額が発生しない限り加算税なども取られない。

だから赤字の自家用法人なら税理士に頼らず、税務ソフトにも頼らず、自分の手で気楽に申告しよう。それで会計の事が勉強できるし、あのトヨタも同じもの(何桁も違うけど)を提出していると思うと愉快だ。

論理の力で神の存在を否定

ここでは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の唯一神の事を考える。

この三つの宗教は何れも旧約聖書が元になっているから同じ神で、天地を創造した万能の存在らしい。そもそも、誰も見たことのない神という存在を信じる人は、自分が頼っている宗教の聖典が嘘っぱちなら自分が惨めになるから、聖書に書かれている事は正しいと自分に言い聞かせているだけだと思う。

この世の中、嘘っぱちが横行しているが、豊かな人生を送りたいなら嘘を信じてはいけない。しかし、大抵の嘘はちょっと考えればすぐに見破れる。例えば、絶対に儲かる投資の話。その話が本当であれば絶対に他人には話さないはずである。

それで、万能の存在も有り得ないと分かる。その論理は全能のパラドックスと言われているらしい。ウィキペディアによると、古典的命題に、
 全能者は「重すぎて何者にも持ち上げられない石」を作ることが出来るか?
というものがあるらしい。もし、作れなければ全能ではないし、作れれば、それを持ち上げられないのだから、やはり全能ではない。従って、全能者は存在しない。

私も別の命題を考えてみた。全能ではない神を作れ、と。神が全能であることを否定するには反例を一つでも挙げれば良い。もし、全能ではない神が作れたのなら、ここに全能ではない神の存在が証明された。作れなくても全能ではないことが証明された。

しかし、敵もしぶとい。全能者は論理的に不可能なことも出来てしまう、と。

ああ、そういう事ですかい。それなら私も全能者を街中で見かけた事はあるよ。近寄りたくは無いけど。

所で、物事を理解するのに仮定を入れてそれで簡潔になるなら、その仮定は証明されずとも役に立つ。逆に説明に不要な存在は無意味である。この考え方は「オッカムの剃刀」と呼ばれている。

神の存在理由として、自然は余りにも精緻に出来ているので全能の神でしか作り得ない、というものがある。しかし、神という仮定を加えても自然の理解にちっとも役立たない。逆に神という余分な存在についての疑問点が増えるばかりだ。神は日本語も話せるのか?とか。

そう言えば、創造主がいて欲しいと思うのは信者達が使っている言語の特性なのかも知れない。旧約聖書はヘブライ語、新約聖書は古典ギリシャ語、コーランはアラビア語で書かれている。それら言語は全て主語がなければ文として成立しない。そしてその信者達が使っている言語の多くもそうだ。

即ち、それらの言語においては定形動詞を必ず含まなければ文とは言えず、定形動詞とは主語の人称や時制などで動詞が活用したものだから、どうしても主語が(名詞として文中に無くても)想定されなければならないのだ。英語は活用が簡素になったから文に主語を名詞として必ず含め、主語のすぐ後に置かれる単語が即ち定形動詞であるという規則になったけど。

一方、我が言語の日本語は主語がなくても全く平気である。いや、主語のある方が特殊な表現だ。日本語で、無いと困るのは前提としての環境だ、文は環境の説明だ(単なる私の考えだが)。だから環境としてのこの世の存在は当たり前の事で誰が創造したかなど気にしようがない(日本の神話には天地創造もあるけれど)。

さて、話は全く変わるが、テレビの「ウルトラマン」という番組より昔に「ウルトラQ」という番組があった。どちらの番組でも毎回怪獣が登場するのだが、ウルトラQではヤバくなってもウルトラマンは登場せず、毎回人間達が知恵を絞って何とか対処する、というストーリーだった。ウルトラマンは3分間という制限があったり、怪獣に負けそうになったり、決して万能とは言えないが結局は必ず勝つ存在で、いわば神である。

私には、そんな神頼みのウルトラマンという番組よりもウルトラQの方がずっと面白かった。

信じる者は考えない

日本のリベラル・アーツ教育で一番有名な大学といえば国際基督教大学(ICU)だろう。今春、秋篠宮家の佳子内親王が学習院大学を中退してまでご入学されると話題になっている。

遠い昔、定年退官された教授がICUに移られた際に引っ越しの手伝いでキャンパス(教員宿舎がある)を訪れた事がある。都内とは思えない程、鬱蒼とした森に広々とした美しいキャンパスで驚いた。

このICUを筆頭に、リベラル・アーツ教育で有名なのは「何故か」キリスト教会が作った大学が多い。その学生がキリスト教を信じている必要は無いけれど。

キリスト教を信じるとは、聖書に書いてある内容が正しいと考える事だ。そして、その教えに従って日常生活を過ごす。

例え、雇われる生き方だとしても勤務時間よりも自分が自由に使える時間の方が長い。その自由な時間をどう過ごすのかを考えるのも大変である。そこで宗教が登場。人生のお決まりパックを提供。そのプランに従って行動すれば何も考えずに大過なく人生を過ごすことが出来る。

歴史的に見れば、宗教は権力者が民衆を支配する道具として活躍した。民衆に宗教を信じさせておけば、権力に逆らうようなことは何も考えない。民衆は自分の境遇に何の疑問も持たなくていい。

私はキリスト教が西欧の歴史と文化に多大な影響を与えたという点で内容を知りたいとは思う。だけど、聖書って所詮、民族の伝承に過ぎない。大昔なら誤魔化せたけど、現代の科学の常識で内容を分析すれば矛盾だらけだ。話の数々を真実と考えることは論理と科学を否定することになる。

キリスト教の教えの多くはいい事を言っていると思う。それを自分に必要なモラルのパッケージ(但し、自分で吟味して必要なものだけ)として受け入れてもいい。だけど、神の存在なんて要らない。

自分で決める為に学ぶリベラル・アーツと宗教の相性ってすっっごく悪いと思うんだけど、「何故か」ねえ。

リベラル・アーツの元々の意味

最近、リベラル・アーツという言葉を新聞で良く見かける。文系・理系問わず幅広く学ぶやり方の学部名として増殖中だから。

しかし、元々はラテン語でリベラルは自由人、アート(アーツは複数形)は技術或いは知識の意味である。だから、リベラル・アーツとは自由人として必要な技術や知識の事である。

自由人とは奴隷でない人のこと。尤も、古代ローマでは奴隷とは言ってもその中で色んな職種があって、家庭教師、会計士、医師など知的労働者もいた。つまり、奴隷とは主人の命令に従って労働する人々のことである。ただ、古代の奴隷は主人の所有物だから自分の意志で辞める事は出来ない。

奴隷という制度こそないが、会社という主人の命令に従って労働し、一生雇われる生き方が常識の現代(つまり、辞めることは困難)では会社従業員は現代の奴隷と言える。所詮、就職予備校に過ぎない日本の多くの大学でリベラル・アーツ教育を標榜しているのも皮肉だ。

では自由人とは何か。今ウィキペディアを引いてみると、
何者にも強制されず自らの運命を自分できめることができ、思いのままに生きる人。
と説明している。何とも素晴らしいが、実際にやるとなると難しい。自分の人生の運転を運転手に任せるのではなく、自分で目的地を決めて自分で運転しなくっちゃならない。

その為に必要な知識として、古代ローマ人は自由七科を定めた。それが主に言語に関する、文法、論理学、修辞学、の三学とその他の、算術、幾何学、天文学、音楽、の四科である。

こうして必須科目を並べてみると、現代のビジネスツールとして必須されるワープロ、表計算ソフト、プレゼンテーションソフトと似ている。それも道理である。雇われの人生だとしても、会社従業員には任された業務については自分で決めて自分で実行することが要求されている。そこで求められる技能は古代のリベラル・アーツと共通するはずである。

ところで天文学とは星の位置の予測にかかわり、物理量をアナログとして捉えること、音楽とは音という空気の振動現象を音階や和音というデジタル(弦の長さの整数比)として捉えることだと思っている。もちろん、幾何学とは数学におけるアナログであり、算術とは数学におけるデジタルである。

だから、四科については、数学と物理学をアナログとデジタルで扱う為の知識だと解釈している。つまり、古代ローマ人は自由人の必須知識として文系科目だけでなく理系科目も重視していた。

そして、現代でも似非科学に騙されることなく物事を正しく判断するために、技術者でなくても理系知識は必須のものだと私は思っている。

勿論、四科を学ぶ為には三学の修養を前提としていた。三学は何より思考のツールである。言語と論理を無くしては思考することは不可能である。そう考えて、私は言語学に興味を持った。それについては別の話題として後日紹介したい。

その他に、法律、経済、会計、は現代社会を生き抜く上で必須の文系科目だと私は思っている。結局、そのような文系・理系の知識をバランスよく学ぶリベラル・アーツ教育というものが流行る事には私も賛成なのだ。

ケチケチ病の治療

一昨日は京都に夫婦で行った。森見登美彦の小説「聖なる怠け者の冒険」に出てくる、寺町通りのスマート珈琲店でタマゴサンドを食べに行く事にしたから。ケチケチ病の治療の第一歩。

今迄、必要な事にはお金を惜しまなかった積りだけど、やりたい事を無意識の内にお金が掛かりそうだから不必要な事に分類する癖が付いている気がする。これからは空想で楽しんで終わっていた事も実現可能ならやってみるようにしよう。

それで、金券屋で京都までの切符を買った。行きは神戸三宮から阪急の全線切符で。本当は特殊乗車券と言う株主優待券で、阪急のどの駅から乗ってどの駅で降りるのか自由な切符だから、遠くの駅まで乗る時はオトク。

途中、阪急京都線と新幹線が並行している区間がある。つい、新幹線の開業前に当時の国鉄に頼んで阪急京都線の工事の間だけ阪急電車が新幹線の線路の上を走った事があるよって話を妻にする。阪急河原町駅からはお店まで歩いて行く。途中、錦市場で黒豆煮と浅草海苔を買う。どちらもお買い得品。寺町通りは妻が気に入った模様。又、娘と来たいと言う。

実は、お店で知人夫婦と待ち合わせしていた。職業訓練で知り合って事業家になった人で、このブログの愛読者でもある。話のネタに下北沢でゲットした古着のセーターを着て行った。

この店のことは小説で初めて知ったけど、ネットで調べると、とても人気があっていつも混んでいるらしい。時間が早かったので幸い4人の席が空いていた。店のレトロな雰囲気がいい。噂のタマゴサンドは美味しかった。フレンチトーストとホットケーキも人気メニューらしいので又の機会に食べてみたい。お勘定も上手く払えた。ケチケチ病もやや改善。

この後、知人の店などを巡ってから別の喫茶店へ。知人の息子さん(保育園に行ってる)は我が息子の幼い頃と性格がよく似ているらしい。無事に小学校でやっていけるのか心配だったけど無事に育ったなどと子育ての話題になる。私がトイレに行っている間に先方は支払いを済ませる。ケチケチ病改善出来ず。

帰りは京都駅まで車で送ってもらう。JRの時間制限無しの切符を買っていたが、昼特切符でも使える時間だったのがちょっと悔しい。デパ地下で炙り鯖寿司と湯葉の包み揚げを買う。奮発した積りだが、炙り鯖寿司はお買い得品。

今迄は京都に行ったら神社仏閣巡りで慌ただしくしていたが、折角だからあれもこれもって駆け回ると、かえって見落とす事がある。この日は街の散歩でゆったりと過ごせて良かった。こんなお金の使い方をこれから目指そう。私は乗り物やインテリアにも興味があるからね。まだまだ金額的には小さいけれど、方向性は正しいはず。だけど、同じ目的を達成するのに一番安いやり方をつい探してしまうのは殆ど趣味と言える。もうこれは治す必要ないと思う。

それより、これは知人にも言われたことだけど、お金を使うのにもう限られた時間しかないって事を自覚しておかねば。ケチケチ病は使い残すのも惜しがるはずだから、きっと上手く使えるだろう。

仕事しない父親に辛口評価

息子と娘は「大」の数を競う。
父ちゃんは? 「大、大、大、大、だーい好きっ!」 じゃあ、母ちゃんは? 「好き」

妻には申し訳ないが、子供達が小学校低学年の頃は私の人気が高かった。子育てを頑張ったお陰だ。しかし、小学校高学年になってくると状況が変わってくる。

父ちゃんは? 「好き」 あれっ? 大好きじゃなかったの? 「好きだけど、父ちゃん仕事してないでしょ」
「友達にお父さんは何の仕事しているの、と聞かれて返事に困るんだよね」と辛口の評価。(因みに、妻が東京出身のせいか、家の中の会話は関西弁ではない。)

仕事してないように見えるけど、これでも事業を色々考え中だし、社長だぞ、と説明しても駄目。ちゃんと後片付けとか家の仕事してるだろ、と言っても、それは仕事の内には入らないらしい。じゃあ、母ちゃんも仕事してないけど、それでも良いの? と聞くと、子供達にとってお母さんという職業は存在するらしい。まあ、自家用法人という、会社の事務を極力しない会社という実験をしている身としては、子供達が父ちゃん仕事してないと信じ込んで実験成功って喜ぶべきだが。

子供達に仕事をしない生き方もあると理解してもらうのは難しい。自分だってリストラされる迄は仕事をするのが当然だと思っていたんだから。でも、仕事を辞め自由な時間を得た事で、働かない人も居る社会の方が健全ではないかと思えてきた。全員が働くような社会には余裕が無い。ベンチに控えの選手がいない野球チームのようなものだ。誰かがギブアップすれば社会が崩壊する、そんな危うさは御免だ。

それに、世の中には良い仕事と悪い仕事がある。悪い仕事をする位なら、仕事をしない方がよっぽど増しだ。迷惑なチラシを郵便受けに入れるポスティング、迷惑な電話営業、危険な地区に建売住宅を建設する業者など。ゲームソフトの開発だって、時間泥棒で人々の知能と生活を悪化させている産業とも言える。

仕事しなくても貯金があるから贅沢しなければちゃんと生活出来るよ、とは説明していたけど、ウチって貧乏なの? とか、晩御飯の後でいつもデザートまで食べて贅沢してるね、とか、子供達の発言を思い返すと要らぬ心配をかけたなあ、と今更思う。

でも、ウチって金持ち、とか思わせるよりはずっと健全に育った気がする。娘は今では仕事をしない生き方にも理解を示すけど、父ちゃんのせいでそんな生き方もイイなあ(少し違う、スローライフの方が近いと後で娘に言われた)と思うようになって困ると言っている。

このブログを書く意味

最近、毎日のように投稿している。

前の職を辞して以来、生き方について始終考えて来たので頭の中には書きたいことが山程溜まっていた。ブログを始めて、そのモヤモヤした考えが鮮明な言葉になっていくことが分かり、とても嬉しい。

このブログでは、「豊かな人生を歩むのに大事なこと」を自分の子供達に伝えたい。家庭では口にしていたけど、十分でなかったし、大人にならなければ伝わらないことだってある。だから、想定するブログの読者はまず息子と娘。妻が見てもいいけど。そして、それを求めている見知らぬ人達が検索で見つけてくれればいいなとも思う。それで社会貢献にもなるし。

知人や親戚にも近況報告の代わりになると思っていたが、ちょっと無理である。まだ宮仕えせざるを得ない人達にとっては嫌味か自慢話としか受け取って貰えないに違いない。単に日常生活や趣味の事だけを選んでブログを書いたら近況報告には使えても自分の想いは伝わらない。それで、職業訓練で知り合って事業を起こした二人の知人にだけこのブログの存在を年賀状に書いてみたけど、それ以上は宣伝しない。

ページビューが増えればブログを書くのに張り合いが出るし、検索結果が上位になってこのブログに辿り着き易くなるから嬉しい。ただ、その為の対策はしない。邪魔な広告も一切しない。ブログの表示でもひたすらシンプルさを追求したい。そして、内容のみで読者が地道に増えればいいなと思っている。

これ迄、節約や投資に関する投稿が多かった。今の自分の境遇に至る迄の道筋を読者に理解して貰いたかったから。でも、一番言いたい事は、何事も「自分で考えて自分で決める」大切さである。自分の人生は自分が操る。他人に操られたり、大衆に付いて行くのはダメだ。そして、その為に必要な技法(リベラル・アーツ)についても語っていく積りだ。

買い方に悩みつつヨガ文字で遊ぶ

新しいパソコンが欲しい。

WindowsXPのサポートが終わって程なく、自分用のThinkPad R50(12年前の製品)が動かなくなった。去年の申告もこれでやっていたのに。しかし、良い物を買って大事に使うのが方針とは言え、流石にここまで古い製品を修理するわけには行かない。もし修理が出来たとしても、その修理代金で性能が何倍にも向上した新製品が買えてしまうから。

全く、デジタル機器の買い方は難しい。自分の方針には合わないけど、高い製品を長く使うよりも安い製品を買い換えて行く方が良いとも言われる。その点、デスクトップ型のパソコンは部品が標準化されていて素晴らしい。ケース、電源、マザーボード、CPU、メモリ、悪い部分だけ交換すればいい。だけど、場所の問題もあって、買うのはいつもノートパソコンだ。それもディスプレイとキーボードが良い物。CPUは程々の能力でも十分。

今ブログを書くのに使っているパソコンは妻用のThinkPad T410i(5年前の製品)。妻から最近遅くなって使いづらいって言われたので、メモリを増設し、HDDをSSDに変え、Windows7をチューニングし、Google日本語入力にしたらすごく快適になった。それで、私がブログを書く時はこの頃いつも借りて使っている。

他にDell mini12(6年前の製品)という非力な(でも高速化前の妻パソコンよりは速かった)パソコンもあって、今も(妻がパソコンを使っている時に)Webを見たり、パソコンを2台並べて仕事する(前年の申告書の表示させながら、e-Taxを使うとか)場合に使っているけど。

しかし、パソコンは英語キーボードのものしか買いたくない。今迄買ったのも全て英語キーボードの製品。最近Dellは英語キーボードを選択出来なくなったので、Windowsパソコンでは今やThinkPadしか選べない。

何でこう次々と英語キーボードのパソコンが無くなって行くのか不思議だ。そのThinkPadにしても以前は日本語キーボードと同じ値段で買えたのに、今は追加の費用がかかる。ひょっとして、どこかの役所が圧力をかけていたりして。

しかし、グローバル教育を進めている今こそ、英語キーボードの普及に向けて役所が音頭を取るべきだ。日本語はローマ字入力で何の問題もないし、今や殆どの人がローマ字入力だろう。日本語キーボードは記号の位置が英語キーボードと異なる。なぜわざわざ位置を変えたのか全く理解出来ないが、これが非常に迷惑なのだ。少なくともITに強い人材が欲しいのなら英語キーボードを使って教育して欲しい。日本以外のほぼ世界中のキーボードのキー配置は英語キーボードが基準である。

ところで、ThinkPadのキーボードは質が良くて評判が良かった。特に7段キーボードと呼ばれているタイプが人気だった。今ブログを書いているこのパソコンもそうだ。ところが、最近6段キーボードに変更され、それから僅かな期間で5段キーボードへと変更された。最後に減った1段の分はタッチパネルに代えられた。更に、クリックボタンがタッチパッドと一体化するという大変更。

このユーザーインターフェイスを勝手に変えるという暴挙に対し、ユーザーの評価は最悪だった。それで、最新型のThinkPadを買おうかなと思っていた私も二の足を踏んでいた。それとも英語キーボードの中古ThinkPadを探そうかと。ところが、今度発表された新型ThinkPadは6段キーボードに戻されたのだ。それで新型を買う気になって、いつ買えるかと、lenovoのサイトを時々見に行く。

そして、面白いものを発見。ヨガ文字という、YOGAという製品の宣伝の為に作られたプロジェクト。これは凄い。CGで文字を作るんだけど、その元データは実際に人間が身体を曲げ、三次元のデータとした上で、好きなキャラクターに文字のポーズを取らせる動画を作るという手の込んだもの。どうでもいい事を真剣にやる所が好きだ。


それで自分も「COBLI」という文字を書かせて見た。キャラクターはSumo Wrestlerというシュールなのも気になったが、Stick Humanにした。CGで曲面を描くと荒いから直線的な方が合うかなと思って。妻はNinjyaが気に入ったと言っていたけど。このブログ初の動画だ(但し、音は無いらしい)。

投機界のルーレットと麻雀

前の投稿と何かタイトルが似ているが、今回は「投資」ではなく、「投機」である。投機についての私なりの意見を書く。

広辞苑(第5版)によると、
投資とは、(1) 利益を得る目的で、事業に資金を投下すること。出資。
投機とは、(3) 市価の変動を利用して、その差益を得るために行う売買取引。
と説明している。

株式投資で得られる利益は、投資先の事業で稼いだお金の一部を配当金として頂くものであって、権利の売買に伴う利益は副次的なもののはずである。だから、相場の上げ下げに一喜一憂する必要はない。

しかし、投機はゼロサム・ゲームなのだ。利益を得るものの陰で損失を被るものもいる。その取引の大きさに比べてその期間中に得られる投資の利益は無視できる程小さいので、利益と損失の合計はゼロとされるが、本当は胴元に支払う分だけマイナスである。因みに、投機における胴元とは、取引手数料やスプレッドの事である。

さて、そのゲームには2種類ある。一つは「運のみ」のゲーム。これはルーレット型と呼ぶことにする。もう一つは「運と腕」のゲーム。これは麻雀型と呼ぶことにする。

ルーレットでは玉がどの目に入るのか予想するのは無理である。確率は全く等しい。賭け方は色々あっても確率が小さいだけ配当が大きくなっているから期待値は同じで、しかも胴元の取り分があるから1を下回る。

しかし、こんなゲームでも大儲けする人はいる。ゲームの才能があるのではなく、単に運の良い人。こんなのは猿がやっても、或いはタコの動きで賭ける目を決めても、大儲けする猿やタコが出現するはずである。

相場の上げ下げを予想するのもルーレット型の投機だ。ルーレットの出る目は誰も予想出来ないと思うだろうが、相場の予想(テクニカル分析)は出来ると主張する連中がいる。しかし、その連中はその予想を使って大儲けしているのだろうか?

勿論、それで大儲けして、自分には才能があると勘違いする人はいる。しかし、実は単なる運の良い人である。大儲けした時にきっぱりと止めればいいのに、有り金を全部無くす迄続けてしまう。

片や麻雀と言うゲームは、配牌(どんな種類の牌が来るのか不明)という運の要素と、捨て牌(ゲームのプレーヤー全員に公知)と手牌(他のプレーヤーには秘密)という情報から捨てる牌を決める計算の要素の両面を持っている。数多くのゲームを通算すれば、運の要素は消えて、この計算に秀でたものが勝者になる。そんな麻雀の王者達だけで対戦すれば、おそらく勝者は運で決まるだろう。しかし、ゲームに初心者を引き込めば…王者は勝ち続けるに違いない。

そして、麻雀型の投機がデリバティブを含む取引だと思う。プレーヤーはヘッジファンド(のコンピューター)である。彼らは相場の上げ下げに賭けるようなことはしない。上がった場合、下がった場合、変わらない場合、それぞれにおいて最善の結果を生むように各種デリバティブを取引するプレーを続けるだけである。プレーを続ける程、手が有利になっていく。そして最後には相場がどうなろうともプレーヤーが勝つ(儲かる)。あたかも将棋の名人が相手を詰むように。その背後では世界中から集められた秀才達が最善の手を日夜研究してプログラムに反映しているのだ。

そんなヘッジファンドだけがプレーヤーだとしたら、デリバティブ取引はあたかも猛獣達がお互いを傷つけ合うようなものだ。しかし、素人達をデリバティブ取引に引き込めたとしたら…生きた餌が猛獣達の前に現れたようなものだろう。誰が勝って、誰が負けるのかは明らかである。

そんなヘッジファンドもちゃんと社会の役に立っている。彼らがプレーを続けているお陰でデリバティブ取引の流動性が確保される。そして、素人達もヘッジファンドが飢えないように餌食になるという役目を果たすことになるのだ。

投資界の天動説と地動説

短期投資家と長期投資家の心構えの違いを比喩的に表現してみた。

(日本の)短期投資家は、円の資金を金融商品に投資して、投資している間は絶えず相場を気にして、投資資金を円に戻して、儲けや損の金額が確定してやっと落ち着く。

それは金融商品の相場は天空を駆け巡る星たちのように絶えず変動し、一方、円の価値は大地のように不変である、つまり天動説を信じる人達である。

一方、長期投資家は、多額の円の資金を持っていると落ち着かない。株や他の通貨や外国株や金などに資金を分散させてこそ安心する。

円の価値は不変にあらず。円もまた他の金融商品と同様絶えず相場が変動しているのである。そういう投資界の地動説を信じる人達にとっては、投資を続けている状態こそが通常なのだ。

あのリーマン・ショックで金を除く(純金積立やってて良かった)手持ちの投資残高が急速に減っていった時、このままゼロまで突き進んでいるかの如く感じたけど、いや、円での評価額が下がっただけで、別に価値がなくなった訳じゃない、何なら外国で暮らせばいい、と思い直して冷静さを取り戻す事が出来た。

今から思えば、その時、円の価値が異常に上がっていた訳で、手持ちの円が上がったと喜んでいても良かった位だ。

日経 夕刊に朝刊と全く同じ記事

私は日経新聞の読者である。これまでも日経の記事については何度かブログで取り上げた。これからも良い記事、悪い記事、色々取り上げて感想を述べていきたい。それが日経に伝わって、より良い新聞になったらいいなと思っている。残念ながら、今回は日経に対して苦情を言う。

昨日(2月3日)、日経新聞の朝刊(13版) 35面に、海遊館株 近鉄に売却 という記事が載っていた。そして、それと全く同じ記事が夕刊(1版) 15面にも載っていたのだ。

実は、夕刊に朝刊と全く同じ記事が載っていたことは、これまで何回もあった。ブログを書くようになってから、又そのような事が起きたら書こうと思っていた。

新聞の定期購読は朝夕刊のセットか朝刊のみのどちらかで売られている。つまり夕刊のみの読者は存在しない。だから、朝刊に載せた記事を夕刊にも載せるのは読者にとっては意味が無いどころか、何か追加の情報でもあるのかと思って読んだ読者の時間を無駄にしてしまう悪事なのだ。新鮮なネタだと思って読んでみたら古いネタだった。言ってみれば、料亭で前の客が食べ残した刺し身を次のお客に出すようなものだ。

逆のパターンもある。夕刊と同じ記事が翌朝の朝刊に載る場合。夕刊が第一報で翌朝が詳報なら分かる。でも全く同じ記事なら、やはりダメだ。それだったら夕刊に載せる必要はなかった。

さて、今回のケース。記事は全く同じだが、夕刊には更に海遊館の場所を印した地図が2枚追加されていた。これは、夕刊のスペースが余り、海遊館の記事で埋めたものの、まだ余白があったので地図をオマケした、としか考えられないだろう。読者を馬鹿になさるな。スペースがどうしても埋まらないなら「余白が出来て済みません。」とでも書く方が増しだ。

宝くじを買うのは貧乏人

今朝の日経新聞 エコノ探偵団の欄に 高額当せん「くじ」なぜ人気 という記事が載っていた。

ちょっと刺激的なタイトルにしてみたが、実は私も若い頃に宝くじを買った事が一度だけある。たった一枚だけだが、随分と精巧な印刷で驚いた。しかし、当たり前である。当たれば一枚何億円の代物。偽造される訳にはいかないのだ。そんな印刷代は経費となり、そして胴元(自治体など)のあがりが加わって、当選金に使うのは僅か47%しかないそうだ。

不利を承知(知らない人もいようが)で「夢」を買うという不合理な行動。米国では低所得の人や社会的に不利な立場にある人ほど「くじ」を買う傾向がある、という研究もあると言う。

サッカーくじ 最高10億円、ロト7 最高8億円、年末ジャンボ宝くじ 7億円、など高額の当選金で貧乏人から金を巻き上げるのは社会的に正しい事なのか?と思ってしまう。くじを売るために思いっきり欲望を掻き立てるようなテレビCMまでして。

正しい投資なら、期待値が1を下回る事が確実なら絶対に手を出さない。そもそも、今の私にとって、仮に一等が当たっても何も嬉しくもない。一等の金額は私の資産の金額より遥かに大きいけれど、そのお金をもはや必要としていない。もう、一番高い買い物はしたからね。宮仕えに捧げたはずの私の時間を。資産は私と妻で丁寧に使い切りたいと思っているから、余分なお金が手に入っても戸惑いと悩みが増えるだけ。

そう言えば、生命保険の還元率についても書いてあった。くじとは目的が違うとは言え、宝くじ並みの還元率の商品もあるらしい。母が常々話していた。高い保険料を毎月払ってやっと手にした満期金は物価高ですっかり目減りして何の生活の保障にもならなかったと。母の教訓を活かして、私は定期の生命保険には入らなかった。

問題は生きる知恵の格差

今日、トマ・ピケティの顔をテレビで見た。21世紀の資本という本を書いて大人気の学者だ。NHKのクローズアップ現代で紹介されてた。

それで所得格差について、その原因は賃金格差から生じるよりも資産格差から生じる方が大きいというのが彼の主張らしい。そして、近年増加した資産の大半が少数の富者の手に渡っているという現状はおかしいと言う。テレビにはプール付きの豪邸が立ち並ぶ様子を上空から撮影した映像が背景に流れていた。

しかし、私はその所得格差が問題であるという前提がそもそも正しいのか?という疑問を持った。彼は、大衆にもプール付きの家を持たせたいのだろうか。

富者はその富を自分自身で使い切る事が出来ない。だからこそ富を持つものはそれを何のために使うのかという自覚と責任を持つ。芸術や文化や社会資本はそうして生まれたのではないか。所得を平等に配分していたら、果たして豊かな社会が生まれたのだろうか。

私は、衣、食、住、医療、教育 の必要最低限が保障されれば、それで十分だと思っている。勿論、その必要最低限すら満たされていない人々もいよう。しかし、それは保障の水準が低すぎるのではなく、折角の保障を活かすだけの知恵がないからである。そのような人々の所得を向上させたとしても、悪しき習慣にお金が逃げて行くだけである。

いや、社会の底辺だけではない。中間層だと信じている人々も、メディアに踊らされて欲望を掻き立てられ無駄に消費させられて生活の豊かさを搾り取られてはいないか。

生活の豊かさって、家や車の大きさやテーマパークに行く事じゃない。カップ麺と菓子パンではなく手作りした食事を取ったり、子供達の宿題を見てやれる時間の余裕のある事ではないか。そんな生活なら必要なお金は逆に少ないはず。その結果として資産も豊かになると思うが。

豊かな家庭には生きるための知恵があり、それが次の世代へと受け継がれていく。小学生に英語を教える暇があったら、生きる知恵を公教育で底辺層の子供達へ伝えて欲しいものだと思っている。

子供達には、生活保護費(何でこんな名前かなぁ、所得保障制度の方が良いのに)の水準でも十分豊かな生活が送れるような知恵を付けてあげたい。そして、人生うまく行かなくても最低限の生活は保障されているから、自分の生きたいように生きろ、って教えてあげたい。

幼い頃から、良い学校を出て、良い会社に入って、出世して、というレールの上をひたすら走るのが正しい人生でそこから踏み外せば地獄が待っている、なんて恐怖で子供達を支配していたら、たとえそれが実現しようとも豊かな人生は送れない、と思う。

コロコロ変えるな

昨日、税務署から法人税及び復興特別法人税の納付書が届いた。

これは我が社が前の年にe-Taxを利用して確定申告したためで、そうでない場合は申告用紙一式が送られてくる。ところで、この封筒に今度は「地方法人税が創設されました」という案内(次回の申告から対象となるが)の紙が入っていた。

全く、税の制度はコロコロ変わる。近年では、地方法人特別税、復興特別法人税などと新種の税が増えたばかりというのに。いずれも税率を手直しするだけで目的を達成出来たはず。

税務ソフト会社と結託しているんじゃないの? バージョンアップせざるを得ないようにして。それとも納税者よりも役所の都合?

そう言えば、金融機関の名前も実にコロコロと変わる。最近、「損保ジャパン日本興亜」という名前の会社が出来てビックリしていたら、今度は「損保ジャパン日本興亜ひまわり生命保険」というとんでもない名前の会社が出来た。全く、この名前を決めた奴等を会議室に缶詰にして、振込用紙100枚に枠からはみ出さないように書けるまで居残りさせたい。フリガナも附けるんだよ。「ソンポジャパンニッポンコウアヒマワリセイメイホケン」って。(さっき、ネットで調べたら、年末調整の書類に長すぎて書けないという問題になってた。)

我が家のメインバンクの三菱東京UFJ銀行でさえも、用紙に書く時、いつも枠からはみ出して困っている。利用者の事より社内の縄張り争いの方が大事か。困ったものだ。今の銀行コード(0005)は三菱銀行のもの。三菱銀行で良かったのに。

そう言えば、三菱東京なのか東京三菱なのか良く迷う。UFJ銀行との合併前は東京三菱銀行だったし、今の英文名は Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ だそうで、利用者を混乱させて楽しんでいるようだ。合併後も東京三菱銀行で良かったのにという説もある。UFJ銀行は三和銀行と東海銀行が合併して出来た訳だから、「」海、東「」、「」和、三「」なら仲良く4行の名前を使っている。

世の中、変えていいものと悪いものがある。中身は革新しても外観は、特にユーザーインターフェイスは変えるべきではない。もし、車のブレーキとアクセルの場所がモデル毎にコロコロ変わったら困るだろう。マイクロソフトはwindows8で手痛い失敗をしてやっと学んだみたいだけど。