断捨離。だんしゃらない、だんしゃり、だんしゃる、だんしゃれば、だんしゃろう。語尾がラ行で終わる言葉は勝手に動詞扱いにして遊べて面白い。ダンシャラーなんて名乗って見るのも面白いかも。
限られたモノを大事に使うようにしているのは、こぶり主義の私も心掛けていること。ただ、使ってないモノを捨てられなかった。その弊害は分かるんだけど。
しかし、娘の成人式に向けて妻の実家から振り袖が我が家に届き、いよいよ場所が無くなった。それで、遅まきながら断捨離を始めてみた。
現在、ゴミ袋が目の前に2つ、ベランダに2つ、家の外の廊下に2つ、息子の部屋に1つ(以上、妻と娘の働き)、アルト君には、スキー3組、ガスファンヒーター、一輪車、ビーチパラソル、が明日クリーンセンターへ持ち込む為に積まれている(以上、私の働き)。これだけ整理しても見た目は殆ど変わらない。でも、荷物が発する圧迫感が少し和らいだ気がする。これからも続けよう。
モノが何で溜まるのか。それは、将来使うかも知れないからとっておく、という思想。断捨離は、今を大切にする。将来の為に奪われている今を取り戻す。
そう言えば、人付き合いの話になるが、一期一会という思想がある。人の運命の頼りなさを知り、今を大切にせよ、という教えとばかり思っていたが、これは人付き合いの断捨離でもあると思う。人の繋がりが増えすぎたら身動きが取れなくなる。付き合いを敢えてそれきりと思う事でそんな事態を避ける知恵ではあるまいか。
断捨離って要らないモノを捨てる事だけど、その考え方はモノだけでなく、ヒト(付き合い)、カネ、ジカン(予定)でも同じだ。お金を溜め過ぎたら、自分で使えないお金の管理に人生を奪われる。時間を有効に使おうと予定を目一杯入れれば自由のない人生が待っている。
必要最低限だけ残して全部捨ててこそ「ゆとり」を得ることが出来る。
そう書いては見るものの、お金は余分に持ってこそ「ゆとり」じゃないのか? という疑問も湧いてくる。必要最低限より溜め込んでしまったらしい現状をどうするのか、模索は続きそうだ。