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論理の力で神の存在を否定

ここでは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の唯一神の事を考える。

この三つの宗教は何れも旧約聖書が元になっているから同じ神で、天地を創造した万能の存在らしい。そもそも、誰も見たことのない神という存在を信じる人は、自分が頼っている宗教の聖典が嘘っぱちなら自分が惨めになるから、聖書に書かれている事は正しいと自分に言い聞かせているだけだと思う。

この世の中、嘘っぱちが横行しているが、豊かな人生を送りたいなら嘘を信じてはいけない。しかし、大抵の嘘はちょっと考えればすぐに見破れる。例えば、絶対に儲かる投資の話。その話が本当であれば絶対に他人には話さないはずである。

それで、万能の存在も有り得ないと分かる。その論理は全能のパラドックスと言われているらしい。ウィキペディアによると、古典的命題に、
 全能者は「重すぎて何者にも持ち上げられない石」を作ることが出来るか?
というものがあるらしい。もし、作れなければ全能ではないし、作れれば、それを持ち上げられないのだから、やはり全能ではない。従って、全能者は存在しない。

私も別の命題を考えてみた。全能ではない神を作れ、と。神が全能であることを否定するには反例を一つでも挙げれば良い。もし、全能ではない神が作れたのなら、ここに全能ではない神の存在が証明された。作れなくても全能ではないことが証明された。

しかし、敵もしぶとい。全能者は論理的に不可能なことも出来てしまう、と。

ああ、そういう事ですかい。それなら私も全能者を街中で見かけた事はあるよ。近寄りたくは無いけど。

所で、物事を理解するのに仮定を入れてそれで簡潔になるなら、その仮定は証明されずとも役に立つ。逆に説明に不要な存在は無意味である。この考え方は「オッカムの剃刀」と呼ばれている。

神の存在理由として、自然は余りにも精緻に出来ているので全能の神でしか作り得ない、というものがある。しかし、神という仮定を加えても自然の理解にちっとも役立たない。逆に神という余分な存在についての疑問点が増えるばかりだ。神は日本語も話せるのか?とか。

そう言えば、創造主がいて欲しいと思うのは信者達が使っている言語の特性なのかも知れない。旧約聖書はヘブライ語、新約聖書は古典ギリシャ語、コーランはアラビア語で書かれている。それら言語は全て主語がなければ文として成立しない。そしてその信者達が使っている言語の多くもそうだ。

即ち、それらの言語においては定形動詞を必ず含まなければ文とは言えず、定形動詞とは主語の人称や時制などで動詞が活用したものだから、どうしても主語が(名詞として文中に無くても)想定されなければならないのだ。英語は活用が簡素になったから文に主語を名詞として必ず含め、主語のすぐ後に置かれる単語が即ち定形動詞であるという規則になったけど。

一方、我が言語の日本語は主語がなくても全く平気である。いや、主語のある方が特殊な表現だ。日本語で、無いと困るのは前提としての環境だ、文は環境の説明だ(単なる私の考えだが)。だから環境としてのこの世の存在は当たり前の事で誰が創造したかなど気にしようがない(日本の神話には天地創造もあるけれど)。

さて、話は全く変わるが、テレビの「ウルトラマン」という番組より昔に「ウルトラQ」という番組があった。どちらの番組でも毎回怪獣が登場するのだが、ウルトラQではヤバくなってもウルトラマンは登場せず、毎回人間達が知恵を絞って何とか対処する、というストーリーだった。ウルトラマンは3分間という制限があったり、怪獣に負けそうになったり、決して万能とは言えないが結局は必ず勝つ存在で、いわば神である。

私には、そんな神頼みのウルトラマンという番組よりもウルトラQの方がずっと面白かった。