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2015年2月2日月曜日

問題は生きる知恵の格差

今日、トマ・ピケティの顔をテレビで見た。21世紀の資本という本を書いて大人気の学者だ。NHKのクローズアップ現代で紹介されてた。

それで所得格差について、その原因は賃金格差から生じるよりも資産格差から生じる方が大きいというのが彼の主張らしい。そして、近年増加した資産の大半が少数の富者の手に渡っているという現状はおかしいと言う。テレビにはプール付きの豪邸が立ち並ぶ様子を上空から撮影した映像が背景に流れていた。

しかし、私はその所得格差が問題であるという前提がそもそも正しいのか?という疑問を持った。彼は、大衆にもプール付きの家を持たせたいのだろうか。

富者はその富を自分自身で使い切る事が出来ない。だからこそ富を持つものはそれを何のために使うのかという自覚と責任を持つ。芸術や文化や社会資本はそうして生まれたのではないか。所得を平等に配分していたら、果たして豊かな社会が生まれたのだろうか。

私は、衣、食、住、医療、教育 の必要最低限が保障されれば、それで十分だと思っている。勿論、その必要最低限すら満たされていない人々もいよう。しかし、それは保障の水準が低すぎるのではなく、折角の保障を活かすだけの知恵がないからである。そのような人々の所得を向上させたとしても、悪しき習慣にお金が逃げて行くだけである。

いや、社会の底辺だけではない。中間層だと信じている人々も、メディアに踊らされて欲望を掻き立てられ無駄に消費させられて生活の豊かさを搾り取られてはいないか。

生活の豊かさって、家や車の大きさやテーマパークに行く事じゃない。カップ麺と菓子パンではなく手作りした食事を取ったり、子供達の宿題を見てやれる時間の余裕のある事ではないか。そんな生活なら必要なお金は逆に少ないはず。その結果として資産も豊かになると思うが。

豊かな家庭には生きるための知恵があり、それが次の世代へと受け継がれていく。小学生に英語を教える暇があったら、生きる知恵を公教育で底辺層の子供達へ伝えて欲しいものだと思っている。

子供達には、生活保護費(何でこんな名前かなぁ、所得保障制度の方が良いのに)の水準でも十分豊かな生活が送れるような知恵を付けてあげたい。そして、人生うまく行かなくても最低限の生活は保障されているから、自分の生きたいように生きろ、って教えてあげたい。

幼い頃から、良い学校を出て、良い会社に入って、出世して、というレールの上をひたすら走るのが正しい人生でそこから踏み外せば地獄が待っている、なんて恐怖で子供達を支配していたら、たとえそれが実現しようとも豊かな人生は送れない、と思う。