クリスマスの贈り物

ここまで日本の社会に浸透していたら、クリスマスなんてキリスト教信者の行事だから無視とは言えない。特に子供のいる家庭では。

我が家でも子供達にはサンタさんから毎年クリスマスの贈り物が届いた。大きくなるまでサンタさんの存在を信じさせる、というのは親の楽しみの一つだろう。だけど、帰省してきた娘にサンタさんを幾つまで信じていたのか今日聞いてみたら、小学校5年生位から信じている振りをしていたそうである。

ところで、娘はブログをやっている(私がブログを始めたのは娘の影響だ)。今年の私からの贈り物は娘が高校時代に使っていた弁当箱であるとブログに書かれていた。別にクリスマスの贈り物というつもりはなく、その前のブログでシーガル社の弁当箱(それが娘が高校時代に使っていたもの)が欲しいと書かれていたので、持っていけと言っただけ。

元々は私の弁当箱だった。娘が中学生になる時、弁当箱にこれを使うか聞いたときはかわいくないと激しく拒否された。その後、息子が高校生の時に弁当箱として使い、最後に娘も使うことになったという歴史がある。プラスチックの弁当箱に比べると油汚れもすっきりと落ちるし、シンプルなデザインも飽きない。我が家では弁当箱は使った本人が洗うという掟があるので洗いやすさは身に染みて分かるのだ。娘がブログで欲しいといっているステンレスの弁当箱は最近ネットで調べたという。似ているとは思っても、それが正に家にあるものとは知らなかったらしいけど。

ここまでは前置き。今年の父からの贈り物(息子にも)は、言葉だ。

「恥あり外聞なし」 そういう人になって欲しい。

恥も外聞もない、という言葉をもじって自分の生き方の信条を作った。恥や外聞の辞書的な定義とは異なるかもしれないが、恥とは自己を律する力、外聞とは他人の評価を行動の基準とする行為、と捉えた。

行動の基準は他人の迷惑にならない限り自分の欲するところ自由であるべきだ。他人の道理にかなった評価は謙虚に聞くべきだが、単に前例がないとかみっともないとか理由にならない批判を気にする必要はない。
一方、他人の目にふれない行為についてはどうか。外聞しかない人間なら隠れて悪いことをしても平気かもしれない。他人の目のない所でも自己の行動にぶれがないこと。これこそが私の思う恥の概念である。

思えば、オレオレ詐欺に引っかかる人も投資詐欺に引っかかる人も恥のない人である。お金をだして息子の不正をもみ消してもらおうとか、不当に儲かる話に乗ろうとするから騙されるのだ。たとえ不正によって得をしたと思っても、そのことで心には重い傷を負うことになるのだ。不正が明るみに出るかもしれないとびくびくしながら生活するその虚しさはどうだろう。

外聞ありの人は、世間で良いとされていることに合わせて行動する人である。世間で良いとされていることは概ね正しいとは思う。しかし全て正しい訳ではない。政府や企業は自分達の都合の良いように自分の頭で考えない大衆を導くことにかけては長けている。かつて戦争に非協力的な人達を非国民と呼ばせたように。

だから、外聞なしの人は自分の行動は自分の頭で考えて決める。大変だ。外聞なしの人になるには自分で考える習慣を身につけなくては。

はたして、子供達はこの贈り物を喜ぶだろうか?