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2015年2月18日水曜日

還付金で味わう法人の超能力

さて、今日で法人税申告作業も終わり。赤字法人の申告はお気楽なだけでなく、利子に対する税金への超能力が味わえる。

まず、利子に対しては個人、法人問わず15.315%の国税(所得税と復興特別所得税)と5%の地方税(利子割)が源泉徴収される。個人ではどんなに所得が少なくてもこの税金が還付されるということは無い。

しかし法人なら、利子を含めた所得全体に掛かる税金からこの源泉徴収分を引いてくれる。そして赤字で税金が掛からない場合は還付されるのだ。これこそ法人だけが持つ超能力と言えよう。

さて、前年度の利子は22円が普通預金口座に振り込まれた。これは源泉徴収された後の金額だ。ここから元の利子の額が27円、源泉所得税が4円、利子割が1円と計算(1円未満の端数は切り捨て)される。
計算の方法 会社の口座がある銀行は利息の振込額(X)しか表示しない。そこで、まず X/0.79685 の値を計算し、一円未満を切り捨てる(Y:税引前の利息の予想値)。Y*0.15315 の値を計算し、一円未満を切り捨てる(A:国税の予想値)。Y*0.05 の値を計算し、一円未満を切り捨てる(B:地方税の予想値)。Y-A-BがXと一致すれば、Yが利子額、Aが所得税額等、Bが利子割となる。一致しなければ、ずれた額だけYを増減して再度計算し直す。2回以内の繰り返しで一致するはずである。
 法人所得税はゼロだから、源泉所得税は4円全額が還付される。法人県民税は均等割額22,000円から利子割1円が引かれて21,999円となる。法人市民税は均等割額60,000円そのままである。

しかし、還付を味わうのもこれが最後。実は、普通預金口座を一昨年の10月頃に利子の付かない決済用普通預金口座に切り替えた。昨今の低金利で僅かな額しか利子が付かないのに、還付金があると申告がとてもややこしくなるからだ。提出書類も増えるし。

しかし、これで利子が付かなくなったと思ったら、切り替え迄に付いた僅かな利子が昨年2月に振り込まれた。今回の申告で、その還付金4円が今年振り込まれるから、その影響は来年の申告にまで及ぶ。

会社創業以来、法人税申告の度に頭を悩ませた還付金。その元となった課税前利子がいったい幾らだったのか調べたら、たったの4,547円(その間の法人税等は710,600円)だった。最初からこれを諦めていれば申告も随分楽になっていたろうに。

この超能力を積極的に投資に活かす道もある。円では金利が低すぎるが、もっと高金利の通貨の債権などを国内証券会社の口座を通じて(利子に対する税金が源泉徴収される)買って、その利子額を上回る経費を計上(例えば社宅を作るとかすれば合法的に現状よりも経費を増やすことが可能)すればよいのだ。

しかし、もはや私が自家用法人を維持する目的は節税にはあらず。家族を守る砦として、最も簡潔に手間なく一個人が運営出来ればそれで良い。そして、どこまで簡潔に出来るか挑戦するのが楽しいのだ。

2015年2月17日火曜日

赤字法人の申告はお気楽

まず、今日の日経新聞の夕刊で青酸殺人事件の記事が朝刊と殆ど同じだった事を報告したい。朝刊の記事の最後に僅かな追加情報を加えただけの夕刊記事。それなら大半の部分は再掲する必要は無かった。

閑話休題、本日、法人税申告書をe-Taxで、法人県民税申告書をeLTAXで送信した。そして、法人市民税申告書、法人県民税と法人市民税の納付書を作成。明日、市役所に行って申告書を提出し、銀行で納税すれば平成26年度事業分の法人税申告作業は全て終了する。

この作業は毎年の事なので前の年の申告書を見ながら作れば楽なのだが、重い腰が中々上がらない。それでもブログを書き始めたお陰で、今年は期限まで約2週間を残して我が社としては今迄で最も早く申告出来た。

自分の性格として、やれば出来る予想が立つ事にはやる気が出ない。それは、他人でも出来る事を自分がやる必要は無いと心の底で思っているのが原因と思う。実際は自分しかやる人がいないけど。そして、一番やる気が起きるのは、やり方は分からないが出来る可能性がある事。困難を乗り越えて実現出来た時の達成感は格別である。でもそっちの仕事?を家族は全く評価してくれない。

自家用法人を立ち上げた時、初の法人税申告は自分にとってチャレンジだった。しかし、今回で申告は九回目。その間、税務署からのお尋ねは一切無し。別に申告書が完璧だった訳では無い。例えば、今回の申告で発見したけど、去年の法人事業概況説明書の中で所得額を千円単位で書く欄で一円単位で書いていた。つまり、赤字額が約8億円!だった訳だ。

おそらく、税務署は我が社の申告を殆どチェックしてない。売上がない赤字法人などどんなに厳しくチェックしても税務署には一円も入らない。後日の調査で赤字額が修正されようとも、税額が発生しない限り加算税なども取られない。

だから赤字の自家用法人なら税理士に頼らず、税務ソフトにも頼らず、自分の手で気楽に申告しよう。それで会計の事が勉強できるし、あのトヨタも同じもの(何桁も違うけど)を提出していると思うと愉快だ。

2015年2月16日月曜日

論理の力で神の存在を否定

ここでは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の唯一神の事を考える。

この三つの宗教は何れも旧約聖書が元になっているから同じ神で、天地を創造した万能の存在らしい。そもそも、誰も見たことのない神という存在を信じる人は、自分が頼っている宗教の聖典が嘘っぱちなら自分が惨めになるから、聖書に書かれている事は正しいと自分に言い聞かせているだけだと思う。

この世の中、嘘っぱちが横行しているが、豊かな人生を送りたいなら嘘を信じてはいけない。しかし、大抵の嘘はちょっと考えればすぐに見破れる。例えば、絶対に儲かる投資の話。その話が本当であれば絶対に他人には話さないはずである。

それで、万能の存在も有り得ないと分かる。その論理は全能のパラドックスと言われているらしい。ウィキペディアによると、古典的命題に、
 全能者は「重すぎて何者にも持ち上げられない石」を作ることが出来るか?
というものがあるらしい。もし、作れなければ全能ではないし、作れれば、それを持ち上げられないのだから、やはり全能ではない。従って、全能者は存在しない。

私も別の命題を考えてみた。全能ではない神を作れ、と。神が全能であることを否定するには反例を一つでも挙げれば良い。もし、全能ではない神が作れたのなら、ここに全能ではない神の存在が証明された。作れなくても全能ではないことが証明された。

しかし、敵もしぶとい。全能者は論理的に不可能なことも出来てしまう、と。

ああ、そういう事ですかい。それなら私も全能者を街中で見かけた事はあるよ。近寄りたくは無いけど。

所で、物事を理解するのに仮定を入れてそれで簡潔になるなら、その仮定は証明されずとも役に立つ。逆に説明に不要な存在は無意味である。この考え方は「オッカムの剃刀」と呼ばれている。

神の存在理由として、自然は余りにも精緻に出来ているので全能の神でしか作り得ない、というものがある。しかし、神という仮定を加えても自然の理解にちっとも役立たない。逆に神という余分な存在についての疑問点が増えるばかりだ。神は日本語も話せるのか?とか。

そう言えば、創造主がいて欲しいと思うのは信者達が使っている言語の特性なのかも知れない。旧約聖書はヘブライ語、新約聖書は古典ギリシャ語、コーランはアラビア語で書かれている。それら言語は全て主語がなければ文として成立しない。そしてその信者達が使っている言語の多くもそうだ。

即ち、それらの言語においては定形動詞を必ず含まなければ文とは言えず、定形動詞とは主語の人称や時制などで動詞が活用したものだから、どうしても主語が(名詞として文中に無くても)想定されなければならないのだ。英語は活用が簡素になったから文に主語を名詞として必ず含め、主語のすぐ後に置かれる単語が即ち定形動詞であるという規則になったけど。

一方、我が言語の日本語は主語がなくても全く平気である。いや、主語のある方が特殊な表現だ。日本語で、無いと困るのは前提としての環境だ、文は環境の説明だ(単なる私の考えだが)。だから環境としてのこの世の存在は当たり前の事で誰が創造したかなど気にしようがない(日本の神話には天地創造もあるけれど)。

さて、話は全く変わるが、テレビの「ウルトラマン」という番組より昔に「ウルトラQ」という番組があった。どちらの番組でも毎回怪獣が登場するのだが、ウルトラQではヤバくなってもウルトラマンは登場せず、毎回人間達が知恵を絞って何とか対処する、というストーリーだった。ウルトラマンは3分間という制限があったり、怪獣に負けそうになったり、決して万能とは言えないが結局は必ず勝つ存在で、いわば神である。

私には、そんな神頼みのウルトラマンという番組よりもウルトラQの方がずっと面白かった。

2015年2月15日日曜日

信じる者は考えない

日本のリベラル・アーツ教育で一番有名な大学といえば国際基督教大学(ICU)だろう。今春、秋篠宮家の佳子内親王が学習院大学を中退してまでご入学されると話題になっている。

遠い昔、定年退官された教授がICUに移られた際に引っ越しの手伝いでキャンパス(教員宿舎がある)を訪れた事がある。都内とは思えない程、鬱蒼とした森に広々とした美しいキャンパスで驚いた。

このICUを筆頭に、リベラル・アーツ教育で有名なのは「何故か」キリスト教会が作った大学が多い。その学生がキリスト教を信じている必要は無いけれど。

キリスト教を信じるとは、聖書に書いてある内容が正しいと考える事だ。そして、その教えに従って日常生活を過ごす。

例え、雇われる生き方だとしても勤務時間よりも自分が自由に使える時間の方が長い。その自由な時間をどう過ごすのかを考えるのも大変である。そこで宗教が登場。人生のお決まりパックを提供。そのプランに従って行動すれば何も考えずに大過なく人生を過ごすことが出来る。

歴史的に見れば、宗教は権力者が民衆を支配する道具として活躍した。民衆に宗教を信じさせておけば、権力に逆らうようなことは何も考えない。民衆は自分の境遇に何の疑問も持たなくていい。

私はキリスト教が西欧の歴史と文化に多大な影響を与えたという点で内容を知りたいとは思う。だけど、聖書って所詮、民族の伝承に過ぎない。大昔なら誤魔化せたけど、現代の科学の常識で内容を分析すれば矛盾だらけだ。話の数々を真実と考えることは論理と科学を否定することになる。

キリスト教の教えの多くはいい事を言っていると思う。それを自分に必要なモラルのパッケージ(但し、自分で吟味して必要なものだけ)として受け入れてもいい。だけど、神の存在なんて要らない。

自分で決める為に学ぶリベラル・アーツと宗教の相性ってすっっごく悪いと思うんだけど、「何故か」ねえ。

2015年2月13日金曜日

リベラル・アーツの元々の意味

最近、リベラル・アーツという言葉を新聞で良く見かける。文系・理系問わず幅広く学ぶやり方の学部名として増殖中だから。

しかし、元々はラテン語でリベラルは自由人、アート(アーツは複数形)は技術或いは知識の意味である。だから、リベラル・アーツとは自由人として必要な技術や知識の事である。

自由人とは奴隷でない人のこと。尤も、古代ローマでは奴隷とは言ってもその中で色んな職種があって、家庭教師、会計士、医師など知的労働者もいた。つまり、奴隷とは主人の命令に従って労働する人々のことである。ただ、古代の奴隷は主人の所有物だから自分の意志で辞める事は出来ない。

奴隷という制度こそないが、会社という主人の命令に従って労働し、一生雇われる生き方が常識の現代(つまり、辞めることは困難)では会社従業員は現代の奴隷と言える。所詮、就職予備校に過ぎない日本の多くの大学でリベラル・アーツ教育を標榜しているのも皮肉だ。

では自由人とは何か。今ウィキペディアを引いてみると、
何者にも強制されず自らの運命を自分できめることができ、思いのままに生きる人。
と説明している。何とも素晴らしいが、実際にやるとなると難しい。自分の人生の運転を運転手に任せるのではなく、自分で目的地を決めて自分で運転しなくっちゃならない。

その為に必要な知識として、古代ローマ人は自由七科を定めた。それが主に言語に関する、文法、論理学、修辞学、の三学とその他の、算術、幾何学、天文学、音楽、の四科である。

こうして必須科目を並べてみると、現代のビジネスツールとして必須されるワープロ、表計算ソフト、プレゼンテーションソフトと似ている。それも道理である。雇われの人生だとしても、会社従業員には任された業務については自分で決めて自分で実行することが要求されている。そこで求められる技能は古代のリベラル・アーツと共通するはずである。

ところで天文学とは星の位置の予測にかかわり、物理量をアナログとして捉えること、音楽とは音という空気の振動現象を音階や和音というデジタル(弦の長さの整数比)として捉えることだと思っている。もちろん、幾何学とは数学におけるアナログであり、算術とは数学におけるデジタルである。

だから、四科については、数学と物理学をアナログとデジタルで扱う為の知識だと解釈している。つまり、古代ローマ人は自由人の必須知識として文系科目だけでなく理系科目も重視していた。

そして、現代でも似非科学に騙されることなく物事を正しく判断するために、技術者でなくても理系知識は必須のものだと私は思っている。

勿論、四科を学ぶ為には三学の修養を前提としていた。三学は何より思考のツールである。言語と論理を無くしては思考することは不可能である。そう考えて、私は言語学に興味を持った。それについては別の話題として後日紹介したい。

その他に、法律、経済、会計、は現代社会を生き抜く上で必須の文系科目だと私は思っている。結局、そのような文系・理系の知識をバランスよく学ぶリベラル・アーツ教育というものが流行る事には私も賛成なのだ。