物事を俯瞰する為には、それを見下ろす視点が必要となる。自分なりに、その物事の本質はこれだと思えるものがあれば、そこから物事を判断出来る。そんな視点を自分の胸の内に持たせるのが教養教育というものではないか。
テストの時だけ暗記した知識などは すぐに忘れてしまって テストの点数以外には何の役にも立たないけど、一旦 その本質を理解出来たなら忘れること無く その知識は生涯の武器になる。
その、本質の理解する為には2つの方法があると思う。一つは膨大な時間を費やしてその物事に触れること。母国語の学習はまさにそれである。文法は知らなくても文の意味は分かるし、その文が正しいかどうかの判断も出来る。運動の法則は知らなくても石を投げたらどのように飛ぶのか予測が付くし、水の流れも理解出来る。
もう一つは腑に落ちるという体験である。その一瞬があるだけで生涯忘れない記憶になる。では腑に落ちる体験とは何か、という事を考えていたら、その多くは「自分が本質を理解している物事とのアナロジーに気付いた瞬間」ではないか、との考えが浮かんだ。アナロジーとは、「あれと同じ」という概念である。
例えば、時間という概念は目に見えないから分かり難い。しかし、多くの文化はそれを空間に例える事で理解しているはずである。時間でも前後という言葉を使う(英語でも before after だ)のがその証拠である。或いは上旬、下旬といった言葉。水が上から下へ流れるが如く、時間も上から下へ流れる。
そうすると、たやすく「腑に落ちる」為には本質を理解している物事の多い方が有利であり、その元を辿れば如何に多くの体験をしているかが重要になる。幼い頃、まだ本質の理解をしている物事が少ない時は、「お勉強」よりも、十分に遊ばせて多くの体験をさせてやるのが理に叶うと思う。