このブログを検索

2015年3月27日金曜日

英語を学べど崇拝せず

小学生から英語を教えるという国の方針、英語が出来なきゃ仕事ができない人の烙印という社会の風潮。そんな英語に対する熱狂で英語の出来る日本人も少しは増えるだろうが、好きでもない英語を勉強させられ、挫折し、英語に対するコンプレックスだけはしっかりと植え付けられた人達がもっと増えることだろう。

多くの社会問題について憂うるばかりで何の力にもなれない私だが、この英語に対する熱狂については、これまで私が色々考えてきた対処法をこのブログで公開して社会の役に立ちたいと思っている。

確かに英語が出来れば便利だし、人生の可能性も広がることだろう。そして、英語の聞き取り能力は大人(中学生)になってから学習を開始するようではネイティブ並みにはなれないだろう。

しかし、子供のうちに海外で暮らし英語に何の不自由もないレベルまで達しても、日本に帰国後はすぐに英語を忘れ日本語しか出来なくなるのが通例だ。もし英語を学ばせ続けたとすれば、バイリンガルとして育つ幸運な場合だけでなく日本語が出来ない人になってしまったり日本語も英語も得意でない人になってしまったりする。

そんな大事な時期に、英語の専門教育を受けた訳でもない小学校の先生が僅かな時間だけ英語を教えることに何の意味があるのだろう。そんな英語教育に時間を割くよりも母語をしっかり学ばせる方が大切だと多くの英語教育の専門家が主張している。

母語は単にコミュニケーションの道具だけではない、物事を考えるために欠かせないものだ。英語を学ばせる時期が遅くなって聞き取りの能力がネイティブ並みにならなくても大した問題じゃない、母語に精通することの方がよっぽど重要だ。

そんな事は優秀なる文科省の官僚達も知っているだろう。しかし、米国の意向には逆らえないのだ(私の勝手な解釈)。英語の出来る日本人(英語帝国2流市民)が増えれば良し、英語にコンプレックスを持ち英語を流暢に話す人々を崇拝する日本人(英語帝国最下層市民)が増えても良し、と思っているに違いない。とにかく、そういった人々を増やす程、英語を母語とする人民(英語帝国1流市民)の地位は益々高まるのだ。

そして、会話重視の政策である。名前の呼び方、挨拶の仕方を始めとして、英会話と英米文化は切っても切れない関係がある。英会話を学ばせる事は英米文化を学ばせる事に通じる。それは英米文化に親しむ人々を増やし、あるいは英米文化を崇拝する人々を増やす事になるはずだ。

こんな状況にどう対処すれば良いのだろう。英語を学ぶことを拒否するのも一つの手段だ。だけど、やはり英語は学んだ方が良い。学んで英語帝国に参加してその恩恵を受けた方が良い。そして、英語カーストの最下層市民でも2流市民でもなく、更には1流市民を超えた存在になればいい。

果たしてそんな事が出来るのか? いくら勉強したってネイティブには及ばないはずではないのか? 確かに、英会話なら無理だろう。しかし、書き言葉なら道はある。大人になってから勉強を始めても遅すぎる事はないし、ネイティブにしたって書き言葉は苦労して身に付けるものだ。しかも論説文に至っては英米文化と距離を置くことも可能だ。

そして、彼らにも弱点がある。英語の強さが仇となって彼らは外国語を学ばないのだ(一部のエリートを除く)。ゲーテの言葉に「外国語を知らざるものは自国語をも知らざるなり」というのがある。つまり、他の言語を学ぶことで初めて自分が自然に使っている言語というものを客観視することが出来る、という意味だ。

だから、日本語に精通したものが英語を学べば、ネイティブを超える英語の達人になる事も不可能ではないのだ。