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2015年4月5日日曜日

懐疑主義ノススメ

このブログではより良き生活を送るため、自分で調べて自分で判断することの大切さを事ある毎に述べてきたけれど、それら私の言いたい事がとても良くまとめてある本に出会った。

「Think 疑え! 」 ガイ・P・ハリソン著 集英社インターナショナル 2014年12月

この本は一言で言うと「良い懐疑主義者になるための思考法」が書かれている。懐疑主義者とは何でも否定する人ではなく、他人の主張あるいは多くの人々がやっていることが正しいのかどうか自分で考えて判断する人の事である。

この本の内容は全て同意できるものだったが、著者は敢えて釘を差している。
ただし読者の方々には、私の言うことを無批判に信じ込むようなことはしてほしくありません。私の考え方が間違っている可能性だってありますし、何より賢明な懐疑主義者は自分自身で答えを見つけるべきだからです。
私は今の自分の境遇には満足しているが、もし世の中の多数の人々と同じ様な生き方していたとすれば、住宅ローンや教育費に喘ぎ、このブログを書いたり色んな事について考える時間すらなく毎日会社で働くような日々を未だに送っていたに違いない。これも、高額な住宅を買ったり子供達を有名私立学校に通わせるのが勝ち組、という世間の風潮には従えなかっただけ。

所で、この本の中で、脳の記憶がいかに怪しいものであるのかの説明が興味深かった。
あなたの記憶は「過去を巡るストーリー」の集積であって、過去の記録を再生することとは異なります。脳はそうしたストーリーを蓄えるとき、あなたに知らせることもなく、自分が重要でないと感じた話の一部を省いたり、なぜか去年見たホラー映画のワンシーンを勝手につけ加えたりします。その他にも、あなたが経験した別の過去を混ぜ合わせたり、まったく架空の出来事をつなぎ合わせたり、事実や登場人物をシャッフルしたりと、自分でもわからないほどなめらかに編集する。つまり、記憶とは、「語り部」の気まぐれに左右される、不確かなものでしかなかったのです。 
ここからは私の持論だが、そのために人類は文字を発明することでより確かな記録手段を手に入れた。だが、その文字の発明以前にも、口承という手段を用いて記録する方法を確立していたのだ。そして、口承は例外なく韻律を伴った詩という形だった。言語であっても韻律という規則に縛られた音の時系列で記憶すること。それは最新の記事誤り訂正符号をともなった通信手段を彷彿とさせる。記憶から創りあげるストーリーよりはずっと正確な手段だったに違いない。