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2015年6月28日日曜日

国語を日本語の使用者のものに

今は日本語にも英語にも興味があるけど、学生時代は国語も英語も嫌いな学科だった。その興味を抱いている私のまま学生に戻ったとしても、やはり嫌いな学科だろう。だって、学校で教える内容がダメだから。

大学入試の国語の問題で、作者はどう思ったか正解を選ばせる問題というのが出る国だ。勿論、どう思ったかのは論理的に説明など出来ないし、後日、試験問題に使われた作品の作者に聞いてみても正解がどれかは一つに決められなかった、という話を読んだことがある。

国語が教える文法と言うものも、それ抜きで日本語を習得した普通の日本人には必要ないし、外国人が日本語を学習するには役に立たない。日本語という言語に正書法が存在しないのも、きっと国語文法という役に立たないものを教育に使っているからに違いない。

英語もその理屈を教えてくれれば好きな学科になったろうに、と今なら言えるけど、英語教師の中で理屈をキチンと理解している人って案外少ないんじゃないか。英語教師の英語の試験(英検とかTOEICとかの)成績って最近報道されたされたけど、ビックリするくらい低いから。

英語の話は後日することにして、今回は国語についての話。国語と言えば典型的な文系科目。理系の私には関わりたくない世界だったけど、それじゃあいけない、と最近思っている。国語を文系人間だけに任せてはいけない。私だって立派な日本語の使用者なのだ。国語がどうあるべきか、私もその言語の利用者として意見を言う権利と義務があると思う。

私が歴史的仮名遣いや旧字体の漢字で教育を受けられなかったのは、戦後になって漢字の全廃を主張するような急進的学者たちの立場が強くなったからで、実に残念な事であった。

歴史的仮名遣いの利点は多い。文化的な継承は勿論、同じ発音の言葉を区別出来る事もあるし、動詞の活用の仕方も一貫した説明が出来る。例えば、「笑う」の否定が「笑あない」でなく「笑わない」なのは何故か。歴史的仮名遣いの「笑ふ」なら、突然「は」行が出現する訳でないのは明らかである。

歴史的仮名遣いの読み方については全く問題ない。この場合はこう発音するという一意に決まる簡単で数少ない規則さえ知っていれば良いのだ。例えば、語頭の「は」行のみそのまま発音し、それ以外は「は、ひ、ふ、へ、ほ」を「わ、い、う、え、お」と発音するというルール。助詞は今でもこのルールで発音しているし。

ただ、書く方はきちんとした教育を受けてないと発音を知っているだけでは書けないのだ。

旧字体とは正字体とも呼ばれる正統派の字で、香港や台湾では今でも使われている。確かに手書きなら新字体に比べて負担が大きいこともあるけど、コンピュータがこれだけ普及した現在なら元に戻しても良いのではないかと思っている。

字の成り立ちという大事な情報を含んだ正字体こそが学ぶに相応しい字だと確信している。正しい字体を知った上で崩すのは問題が少ないけど、崩した字を正しいものと信じる事には害が大きいと思う。

中国語を勉強して初めて知ったけど、「歩」という漢字の正字体は「步」なのである。新字体でわざわざ一画増やしたんだけど、それって日本語の利用者に是非を問うこともなく、役人か学者かが勝手に作った嘘字である。それを知って猛烈に腹が立った。複雑な字の画数を減らすなら、書き易くするという理由も分からなくはないけど。

それから文語の簡潔さと格調の高さにも憧れる。「国境のない医師団」よりも「国境なき医師団」の方がカッコイイ。文語は今でも新聞の見出し等で使われているけど、自分ももっと使いたいものだと思っている。

ついでに言えば、方言も活用したいとも考えている。例えば、「~する」を関西弁なら受け身は「~される」、尊敬は「~しはる」と区別出来る点で区別出来ない標準語よりも優れていると常々考えている。

せめてこのブログの中だけでも国語(日本語)のあるべき姿を求めて行こうと思っている。