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2015年1月30日金曜日

投資資金は他人のお金が如く

消費するお金については10円の差でも気になるのに、資産評価額が一千万円単位で減っても平然(?)としていられる自分って何なんだ?と言うことについて考えてみる。

長期投資とは、それは気の長い話である。山あり谷あり、配当金を含めて10年で倍になれば上等、の世界である。そうであれば、長期投資のあがりだけで暮らしていくには相当の元手が必要だ。節約してコツコツ気長に元手を貯めたからこそ、長期投資と言う地味な投資をやり抜く事が出来る。

そのように消費に関しては慎重な長期投資家でも、投資については大胆でなければならぬ。大きな元手なら、ちまちま株を買っていても間に合わない。

しかし、例えそれが大きく値上がりしても気前よく使う訳には行かない。使うという事は値上がりした株を売ってお金を作ることだ。少しぐらい売っても値上がり前と同じ資産額だよ、とは言っても株数は減っているではないか。上がり下がりを繰り返してやっと少し増えると言うのに、上がる度に気前よく使っていれば元手はどんどん減っていく。

つまり、投資資金は勝手に使ってはいけないのである。そこでこう考えよう。投資資金は他人のお金と同じ。他人のお金だから、相場が下がっても落ち込まず、相場が上がっても舞い上がらず、淡々と大きな資金を運用していく。手に出来るのは配当収入のみ。

実際はそこまでの心境には達してなくて、相場が上がれば「資産が又増えて困ったナ。」と言いながら実は嬉しいし、相場が下がれば「遺産相続に悩むことがなくて済んだワ。」と言いながら実は悔しがっている。

或いはこう考えるか。投資資金は自分の身代わり君の身体。身代わり君が自分の代わりに働いてくれて、株の配当金という給与と投信の配当金というボーナスを稼いでくれる。身体は太ったり痩せたりするけど身代わり君はいつも元気に働く。

しかし、身代わり君もそろそろ働き方を変える日が近づいた。子供達が経済的に独立すれば、もう軽い労働で済むのだ。